17歳からのメッセージReport2003

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17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージ?[受賞作品集]??銀賞? 14私には無数の「顔」があるように思える。なぜこんなことを思ったのか自分でも謎である。しかし、実際に自覚はしていなくても私はいくつもの顔を使いわけているのだろう。昔の私は、周りから嫌われないように、無意識のうちに本当の自分を押し殺していたのかもしれない。人の機嫌ばかりを気にしていたのだろうか…。外面のいい私、怒って泣いて大笑いしている私、大人に愛想笑いしている私、他にもいろんな顔がある。私はいったいいくつの「私」という名の顔をもっているのだろうか。最近は自分でもどれが本物の自分なんだろうと解らなくなってしまう時がある。ある時、友人にも「たまにあなたの顔が解らなくなる時がある」と言われてしまった。その時に「今いる私は本当に私なのだろうか」と自分を疑ってしまった。いきなり核心をつかれたみたいで一瞬錯覚してしまったからだ。でも、そんなことを言われたって私にはどうすることもできない。考えてみれば、無数の顔も私そのものなのだから今さらそれをどうにかしろと言われても無理である。弱い自分・強がっている自分・泣くのも怒るのも笑うのも自分、全部ひっくるめて私の「顔」は成立すると思う。本当の自分、それは、今この一瞬を生きている「私」自身なのだろう…。いつか私の顔が作った顔ではなく自然な顔になればいい。いらいらする時、悲しい時、私は日記をつける。一つには、そういった感情を自分の中で消化する目的があるかもしれない。しかし、その感情を心の中にとどめず、自分以外の誰も読まない日記に敢えて文章として残すという作業は、自分の存在の主張の表れかもしれない。そしてその主張の相手は、自分以外の誰か、理想的な他人、あるいは神のような存在ともいえるのではないだろうか。たまに過去の日記を読み返してみる。すると不思議なことに、あの時の怒りや悲しみは消えている。時が何もかも解決してくれることを実感する瞬間だ。ひたすら怒りを吐き捨てる自分、悲しみにくれる自分。別人のように思えることがあっても、どれも私の一部分として、客観的に見ることができるようになっている。その時初めて、自己の存在の主張の先が、また自分へとつながっていることに気付く。自分で自分の存在を認めてあげられるようになっているのだ。これから先も、さまざまな不安、悲しみ、怒りがあるだろう。でも、すでに経験したことなら、一度乗り越えたのだから、また何度でも乗り越えられるはずだ。未経験のものに出合ったら、また日記をつけようと思う。その瞬間の自分のために、これからの自分のために私は日記をつけ続けたい。私の母は、私が小学校にあがる少し前にクモ膜下出血という病気で倒れてしまいました。奇跡的に助かりましたが、また何年後かに再発するだろうと医者に告げられました。当時「お母さんを怒らせたりしたらアカンで」と言われていましたが、私は母に反発したりしていつも怒らせていました。つい最近まで母が病気で倒れたことを忘れていて、相変わらず反発していました。私が中学3年の時に両親が離婚し、母は私たち姉妹4人を養うため毎日休まず働いています。疲れている母に私は反抗したりしているのでストレスが相当たまっていると思います。ある日、妹に「もしお母さんが死んだらお姉ちゃんのせいやで!」と言われ、私は考えました。「好きで反抗してるんじゃない。素直になられへんねん。でもまた倒れて死んでしまったら悲しい。お母さんのこと好きやし素直にならないと」と。祖母から聞いた話では、母は私が進学したいと言っていたのを知って、私のために学費をかせごうとしていたみたいです。母が応援してくれていたのだと思うと嬉しくて仕方ありませんでした。結局、私は進学希望から就職に変更し、毎日勉強に励んでいます。もし就職が決まって仕事をしたら母の苦労が分かると思います。母の苦労を知るとともに世間の厳しさ、人間関係などいろいろなことを学べたらいいなぁと思います。私は去年の夏休みに、バスケットボール部の合宿で足の甲を骨折し、落ち込んでしまいました。そんな時、障害者の兄が施設から家に帰ってきました。兄は生まれた時、仮死状態で脳に障害が残り、今でも話すことも、歩くこともできないのです。医師からは、5歳ぐらいまでしか生きられないだろうと宣告されたにもかかわらず、現在22歳になりました。そんな兄に、骨折が治って元気に生活している私から伝えたいことがあります。私は幼い頃、母に大事に扱われている兄を見て、いつもやきもちをやいていました。私は、ほっておかれていると思い、「お兄ちゃんは、障害者だからいつも一人特別に扱ってもらっていいな」と思っていました。兄が帰って来た時は、全て兄の思う行動に合わせ、何をしても怒られない兄が大変うらやましく思えていました。しかし、私がケガをして歩きにくくなってみて、不自由さを知った時、はじめて兄の気持ちが理解できたのです。兄は辛くて、悲しくても、自分の気持ちを口に出して言うことすらできないのに、それにも負けずに一生懸命に自分の障害と前向きに戦っていたのです。私は、恵まれた体や環境で育ってきて、他に何もぜいたくなど言ってはいけなかったのです。お兄ちゃんの気持ちを早く気付かなくてごめんなさい。辛くなった時、お兄ちゃんに会うと元気が出るよ。いつまでも仲良く一緒に生きていこうね。長い闘病生活もようやく終り、主治医から退院の許可が出た。しかし病気は僕の下肢の自由を奪ってしまった。十一回もの手術に耐えてその代償が身体障害者とは、神様はあまりに不公平であると思い、周囲の人たちに随分わがままを言ってきた。一番つらいのは自分自身だと、学校も休みがちになり友人も去っていった。両親はそんな僕を辛抱強く育てていたが、十一年目に双子の弟たちが生まれると父は僕を自室に呼んで言い放った。「これからはお前も兄ちゃんだ。自分のことはもちろん弟たちの面倒をしっかり見て自立すること。弱音をはかないこと」弟たちは僕のために幼い身で一生懸命車イスを押したり、人からおやつをいただいても、「まず兄ちゃんから」と言って僕に差し出す。両親がしっかり弟たちに言い聞かせているのだ。弟たちのお陰で高校進学の意欲が出て、無事普通高校に入学でき一年間休まず通学した。将来、医療関係の仕事に就きたいという夢を持って、現在大学への進学を希望している。弟たちは十七歳の誕生日の夜『にいちゃんがんばれおおえんしてるよ』小さなカードを苦労して書いてくれた。父、母、弟たちに背中を押され今は猛勉強の毎日である。目標を持つことは自分自身をも変えてしまう。身障者であってもこの家族と一緒ならば夢はかなうような気がする。夜、寝る前に”今日の自分“を見つめ直していた今までの自分。でも私はそんな生真面目な自分が嫌いだ。ただ自分に自信も持てずに心の中で不安をぐるぐる巡らせているだけだった。”今日の自分“を見つめ直す、と言っているけれど内心、自信を持てない自分を情けないと思っていて、そんな自分を変えたいのに変えら鹿児島市立鹿児島女子高等学校(鹿児島県)立本百合子さん無題大阪女学院高等学校(大阪府)出水麻野さん日記の中の私大阪府立茨木東高等学校(大阪府)戸田美幸さん無題倉敷翠松高等学校(岡山県)中務奈保子さん私から兄へ長野県立須坂東高等学校(長野県)成沢未来さん家族と共に大阪府立八尾翠翔高等学校(大阪府)野口麻衣さん今日の自分、明日の自分