17歳からのメッセージReport2003

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17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージ?[受賞作品集]??銀賞?17の行事でコーラス大会がありました。みんなで決勝へ行って担任の先生を喜ばせようという目標ができ、放課後残って練習しました。クラスの子たちが色々アイディアを出して、歌ってる時に持つ物を作ったりしました。コーラス大会の決勝へ行くためには学年で上位3位に入らなければならなかったのですが、練習の結果3位に入賞でき、クラスのみんなで喜びました。決勝は学年だけじゃなく、全クラスの上位3クラスが競っていて、どのクラスもとても上手で自分たちが歌うまで緊張がほぐれませんでした。歌の途中に先生へメッセージを送ることにしました。作業は昼休みにやりました。材料もないなかで作ったので綺麗なモノではなかったけれど、先生に対する気持ちがたくさん含まれていました。私たちの歌っている姿を見て泣いている先生を見た時涙が出てきそうになって一瞬声が小さくなるのが分かりました。先生へのメッセージを見せると拍手が聞こえてきて余計に涙が出そうでした。そして私たちは見事に3位に入賞できたのです。今思うと、このクラスのみんなと先生に会っていなければ入賞はなかったし、頑張って練習もしてなかったと思います。みんなに出会えてよかったです。学校生活の中で一番大切な思い出です。私にとって出会いとは、とても素晴らしいモノです。生まれて2年後、即アトピー性皮膚炎にかかった後は人からまともな扱いを受けられず、白い目で見られていた。まるで特殊メイクの仮面をかぶったような私は、心の中で幼い頃からもがき苦しんでいた。毎日が肌をかきむしり、ひっかき、そしてまたかくからさらにかゆみは増し、という繰り返しであった。生きていて楽しいと感じたことはほんのわずか。爪の中にあかがたまりにたまり、顔は笑うと同時に血が吹き出す。「人間離れした顔しやがって」や「アトピー女」などの言葉のナイフは、私の心に突き刺さったまま一生抜けることはない。そんな地獄のような生活が中3まで15年間続いた。ところが高1になって、アトピーがぴたりと治り、顔がきれいになった。そして自分のことを好きだと言ってくれる一人の男の子が現れた。「可愛い」という言葉が自分にふりかかってくる感じが複雑で、しかもなんだかうれしかった。またその男の子の存在が珍しくもあった。このように第一印象が私の人生を非常に左右していた。そんな中でどんな時でも一緒にいてくれた友達がいた。私の高2の2学期に別の悩みで学校をやめかけた時、本気で引き止めてくれたのもこの人たちだった。私にとって友達は一生のキラキラ光る大事な宝物だ。ただそばにいてくれるだけですごくうれしかった。人を外見だけで判断しないこの人たちを誇りに思う。私もそんな人になりたい。明治、大正、昭和、平成、僕のおじいちゃんは四世代を生きぬいた。九十歳だった。それはとても安らかな寝顔で、今にでも目をパッとあけそうなほどきれいな蒼白の肌だった。「おじいちゃん」僕が呼んでも返事はない。ゆすってみる、起きようとしない。服の上から紙きれのようなうすい肌とアバラ骨の感触が手に伝わってくる。それと同時に氷のような冷たさが、服の上なのに十分にいやというほど伝わってきた。あぁなるほど、これが死か。僕はなにかあっけなく思った。それはおじいちゃんではなく、人形のようだった。不思議と全然悲しくなかった。涙も二滴ほどしか出ていない。おかしい。何か自分は変だ。そう思った。おじいちゃんの死、それは何の前ぶれもなく訪れた。それは絶対的で絶対に逃げられない。突然コンクリートの壁が自分に落ちてくるようなものだった。ずん、と重く冷たかった。そして生々しくみじめだった。六月の雨のようにパラパラと舞い降りて、いつのまにか消えている、そんなような、感じだった。それはとにかくあっけなかった。父の弟が火葬場の赤のボタンを押そうとしている。僕は何も思わない。みんなが泣いている。昔のモノクロ映画みたいだ。みんな白と黒だ。やけに静かだ。一体何分たったのだろう、ついにボタンは押された。外は春のうらうらとした太陽が照りつけ、僕は太陽をうらんだ。骨をはしで渡す、とても軽かった。私は昨年の4月に鳥取県立倉吉農業高等学校に、晴れて入学した。この学校はとても自然とのふれあいを大切にする学校でありまして、とても楽しく青春時代をenjoyできます。私は牛が大好きです。大好きすぎてずっと一緒にいたいのでこの学校に来ました。この学校で私は牛博士になろうと思っています。きっと無理でしょうけど…。牛はとても興味深い生き物です。胃が四つもある大食い動物です。交尾をしない動物です。後ろにいるとケラレます。とても強暴な牛様ですがとても愛嬌のある顔立ちをなさっています。どこでもウンチ・シッコをするし、さりげに立ちションです。とても心が強い牛様です。そんな牛のような強くかわいらしい女の子に私はなりたい…。何でも食べられるような強い胃袋の持ち主に私はなりたい…。でも焼き肉にされて人間様には食べられたくないなぁ?と思う今日この頃です。これからもいっぱい・いっぱい牛の勉強をして目指せ牛博士!!で頑張りたいと思います。僕には一生忘れることのできない後悔があります。それは昨年の12月に僕の本当の父が死んだ時に葬式にも行かず、線香の一本もあげなかったことです。正直な話、僕は本当の父親が大嫌いでした。なぜかと言うと、僕の本当の父は働きもせず、毎日お酒を飲んでいた。そして毎日母親は泣いていた記憶がある。そんなものを見ながら僕は小さい頃を生きてきた。そして僕が小学校1年生の時に両親は離婚した。僕は、その時から大人になったら母親を泣かし続けた父親に復讐すると憎んで今まで生きていた。そして、僕は昨年、父が死んだと連絡を受けた。母は泣いていたが僕は涙は出なかった。母は葬式に行きたいと言っていたが、僕は決して行きたいとは言わなかったし行きたいとも思わなかった。それから数カ月が過ぎた。僕は夜になると時々父のことを思い出した。それらの思い出は、どれもこれも父が僕をかわいがってくれていたものだった。それらのことを思い出すと父は僕を愛してくれていたことに気がついた。僕はその時に初めて涙を流した。なぜ葬式に行かなかったのか?なぜ線香の一本もあげなかったのか?悔やむに悔やみきれない僕の過ちである。だから同じ高校生に僕が伝えたいことは、いくら嫌いな人でもいなくなってから後悔しては遅い。今の自分の周りにいる人との一分一秒の時間を楽しんでほしいし、大事にしてほしい。それが僕のメッセージです。忘れられない言葉がある。五年前、私がまだ小学生だった残暑厳しい日に私は電車に揺られていた。降りる駅まであと五つくらいだっただろうか、太陽にじりじりと焦がされたプラットホームから、涼しい車内に入ってきた一人のおばあさんが、私の横にすとんと腰かけた。六十代前半に見えたけど、それ以上だったかもしれない。私は彼女を包んでいる雰囲気と、その目を印象的に覚えている。年をとるとどうして、あんな綺麗な瞳になれるんだろう。私はいつの間にか、彼女と世間話をしていた。初めて会った人とは思えないくらい、私たちはいろんなことを話した。彼女は戦争で親を亡くしたことを、十才の私にぽつぽつと語ってくれた。おばあさんの辛い思い出が、私の中に静かに降り積もって、胸が苦しくなる。彼女は最後にこう言った。「親は大事にしなさいよ。親孝行はできるときにしないと、本当に後悔するよ。おばあちゃんはもう、できないんだよ」ゆっくりと言い終わると、もう彼女が降りる駅に着いてしま兵庫県立明石北高等学校(兵庫県)枝川純子さん第一印象鹿児島県立種子島高等学校(鹿児島県)遠藤栄作さんおじいちゃんの死鳥取県立倉吉農業高等学校(鳥取県)大畑千亜紀さん牛博士大分県立佐伯豊南高等学校(大分県)岡本雄嗣さん後悔したこと大阪府立今宮高等学校(大阪府)垣内萌さん忘れられない言葉