17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージReport2003 page 30/76

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17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージ?[受賞作品集]??銀賞? 28電車に乗っていても街を歩いていても頭のハゲた人を見かけるのはよくあることである。そんな時我々のうちいくらかの人は、そのハゲた人がどのような人物であるかを全く知らずしてある程度よくない印象を持つことがある。どういう訳か、その人物が若く見えれば見えるほどよりよくない印象を持たれがちである。ハゲが何故よくない印象を与えるのだろうか?ハゲが他人に迷惑をかけるだろうか?ハゲが見る者に不快感を与えることなどあり得るだろうか?だとすればその不快感の中身は何なのか?―いや、そんなことではない。そもそもハゲはよくないのだという何の根拠もない意識、あるいはハゲているかそうでないかという全く不必要な区別を異常なまでに感じている意識自体に問題があるのではないか。ならば我々はどのようないきさつによってそのような意識をいつ頃から持つようになったのか?少なくとも狩猟採集生活を営んでいた頃の我々にそのような意識があったとは考えにくい。現在においても全人類がそのような意識を持っているということはあり得ない。むしろ持っているのはごく一部にすぎないだろう。そしてそのごく一部に当たる我々は、根拠のない、そして全く不必要な意識の中から「カツラ」という産物を生み出したに違いない。従って無意味で不必要な「カツラ」はやがて消滅するしかないのである。平凡な日常。そんな言葉がぴったりくる、私のいつもの生活。けれど、ニュースが伝える現実は、平凡なんて言葉が似合うものじゃない。戦争、殺人、事故。様々な情報は、国内からだけでなく、国境をも越えて、私たちの元へ届く。けれどそれはどこか、「現実」ではないような錯覚に、私は時々陥る。例えば戦争。もしかしたら今もどこかで戦争が起こり、多くの人が傷ついているかもしれない。それでも私はここにいて、いつも通りの生活をしている。何かしなくてはいけないかもしれない。何もできないかもしれない。情報だけは、こんなにも早く私たちの元へ届くにもかかわらず、私たちの考えはそれについていくことすらできない。どんな情報も、知識も、私たちは簡単に手に入れることができる時代を生きている。テレビや新聞だけでなくインターネットもそうだろう。けれど逆に、情報だけが先走りすぎているのではないか、と思う。私たちの心はまだそれに追いついていない。どこか他人事のように感じてしまう、情報の世界。私たちは「情報」だけを見るのではなく、それに伴った何か、芯にあるものを見なければならないと思う。そうすればテレビの向こう、新聞の紙面だった世界は、自分の「現実」になるのではないだろうか。『ぐぅ』三時間目と四時間目にかけての時間、私から低音の音が教室に響く。腹の虫が騒ぐのだ。朝にたくさん食べてきても鳴るときは鳴る。特に体育があった後は鳴る確率が高い。ちょうど先生が話をやめて静かな空気が流れた瞬間にここぞとばかりに大きな音で鳴ってくれる私の虫に私は拍手喝采である。とにかく恥ずかしい。意外と腹の虫で困っている子は多いようだ。友達とどうしたら鳴らないかという事について話をしていた時、ある友達がこんな事を言いだした。「空の胃に空気が入ったら鳴るんやから、空気を飲み込んだらいいねん」私はなるほどと思いさっそく試してみた。(あ、鳴りそう)と思った瞬間に息をゴクン…「ぐぅ」―なぜあの時なるほどと思ったのだろうか、”空気を入れると鳴る“のに自ら空気を入れてどうするのだろう。そんなこんなで日々腹の虫について試行錯誤を繰り返している。私は一日六時間あるのなら、半分の三時間目と四時間目に昼を入れれば良いのにと思う。でもそんな事は不可能なので早弁をする。または休み時間にアメをなめる。この二つは良い解決策だ。でもよくよく考えてみると、授業中こんな事を考えずに授業内容に集中していればお腹の音は鳴らないのかもしれない。言葉を使わなければ、人と人が何かを伝えあうのは難しい。しかし、今の人たちは言葉を軽く扱いすぎていないだろうか。定型文、という物がある。メールなどである状況下での見本のような文章を使う、あれだ。僕たちは日々の中でもついつい定型文を使ってしまうことがよくある。口が勝手に動いている、あの感じ。僕は大嫌いだ。耳から入った言葉に、どうしたら当たり障りのないように答えられるかを、口が覚えてしまっている。そんな会話を交わしても、空虚なだけで何も残らない。あいさつ代わりに「愛してる」を言う人をたまに見かける。その人たちは自分で分かって使っているんだろう。でも僕にはそれが許せない。人が生きていく上で一番大切な言葉をそんなに簡単に言えてしまう人を、僕は心から軽蔑する。気持ちが入っていない言葉じゃ、本当に大切な事は何も伝えられない。言葉に気持ちが追いついていないのだ。詩を書いていて、気持ちが言葉を追い越してしまう瞬間がある。言葉に引っ張られた気持ちが、引っ張った言葉以上の言葉を生み出す。僕はその一瞬が大好きだし、大切にすべきだと思う。他人とつながる時に誰でも自分の本当の声を伝えたいと願う。しかし、それができるのは言葉を大切にする人だということを忘れてはいけない。「マドンナ」というアメリカを代表する女性歌手がいる。そのマドンナが、数ヶ月前に、イラク戦争に対して反戦の歌とその歌のイメージビデオを発表した。ここまでなら普通の新曲発表ということになるのだが、このマドンナのイメージビデオについては、メディアで規制され、報道されなかったのだ。この事実は、私にとって、とても衝撃的だった。それと同時に複雑な気持ちにさせられた。なぜなら、「自由の国、アメリカ」というフレーズが私のアメリカのイメージそのものであったからだ。だが、今回の報道の規制において、このフレーズは私の中で、全く嘘になってしまった。一体、何が自由なのか分からない。真の自由というのは、自国を批判する者を、駆除することではない。これでは、独裁政治をしているのと変わらない。自分の意思を堂々と言え、その内容がどうであれ、認め合うことが、真の自由ではないだろうか。日本も自由になってきたと呼ばれている。一体、何が自由になってきたのかと改めて考えると、目に見える表面的なことが多いのではないだろうか。真の自由とは、そう簡単に手にすることはできないかもしれない。しかし、より人間らしく、自分らしく生きていくためには、必ず必要な要素である。「自由の国、アメリカ」。これは果たして真実の言葉なのでしょうか。少年犯罪は、おそろしい。私の気持ちをそうやってきちっと固めるきっかけをくれたのは、あの、12歳の少年だ。幼児誘拐殺人…彼のしたことは犯罪である。けっして、許せることではない。でも今思うと、ああやってニュースに出るのはもしかしたら私だったかもしれない。いや、誰でもあった。私たちにはただ行動力がなかっただけだ。なにせ人間の心の奥には、ああいう願望がいくらでも潜んでいるのだから。「殺す」という言葉を私たちは日常で連呼する。幼ければ幼いほど。けれど本当に「殺す」かというと、そんなことするはずがな大阪府立狭山高等学校(大阪府)久保由季乃さん「笑ってアリを踏み殺してきた、私たち」大阪府立東住吉高等学校(大阪府)川端麻葉さん「ぐぅ」滋賀県立草津東高等学校(滋賀県)川端恵美さん情報社会京都府立嵯峨野高等学校(京都府)木崎拓さん言葉を追い越せ!滋賀県立彦根翔陽高等学校(滋賀県)北村夏子さん真の自由とは何か。大阪府立泉陽高等学校(大阪府)小野原祐輝さん脱ハゲ社会