17歳からのメッセージReport2003

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17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージ?[受賞作品集]??銀賞?29い。しかし、彼はやった。私たちはやらない。たったそれだけだ。その差がどこにあるかというと、どこにもないのかもしれない。あるとすれば勉強の差だ。それは学校の勉強じゃなく生きることの勉強。いのちや、人の勉強である。それは、何も知らないこどもが笑ってアリを踏み殺すことと少し似ている。いのちを学んだものはそんなことをしない(それをしたい、したくないにかかわらず)。だから私は常々、少年犯罪を他人事のように話す大人や同世代の友達を不思議に思ってきた。あれは、少しも特別なことじゃない。私たちだっていつニュースに出るか分からない。それは誰にも分からないのだ。だからおそろしい。少年犯罪は、おそろしいのである。「ふるさとは浅茅が原と荒れはてて夜すがら虫の音をのみぞ聴く」―長い旅から帰って来て見ると、家も庭もメチャメチャに荒れはて、草茫々の庭からは夜通し虫の声が聞こえて来る。…めっちゃ寂しい―と、そういう状況の和歌らしい。私は別に旅行帰りではなく、家も庭も荒れはてているわけでもない。ただ「めっちゃ寂しい」の部分だけに共感して、何度もこの歌を口ずさむ。そんな日は私、平安時代に生まれたかったなあと思う。御簾か几帳か何かで幾重にも外界から隔たれた屋敷の奥で、ゆっくりしていられたらなあ、と思う。できれば平安時代も終わり頃。源氏物語や色々な物語がすっかり出つくしてからがいい。夜通し明かりを灯して、あの物語、かの物語と私は読みふける。十二単の私はふと女机の側を離れ、次の間の唐櫃からまた別の草子を取り出すだろう。終日物語のことだけを考え、古典に浸っていたのではない。私はそんな生活と引き換える「后の位」に相当する物をまだ見つけていない。私、「菅原孝標娘」になりたいと思った。彼女のように、少女時代の全部を何かに没頭して過ごしたい。「更級日記」にすごく親近感を覚えた時期があり、更級日記の影響で源氏物語「浮舟」のことが好きになった。その中に、最近の私の気持ちにぴったりの和歌がある。「橘の小嶋は色も変わらじをこの浮舟ぞゆくえ知られぬ」―橘の小嶋をよそにあてもなく流される浮舟のような私。どうなってしまうのだろう私は!ほんの数日前の自分でも、若かったなぁと思うことがある。そう思った私はあの頃には戻れないんだと時の流れを実感する。毎日を過ごすごとに、知らないことが減っていくんだ。高校に入りたての頃は、本当に子供だった。先生にわざと反抗したり夜中まで遊んだり。不真面目かと思えば、球技大会ではりきってたり。先生にはよく怒られた。あの頃は何でこんなに言われるのかわからなかったけど、今は理解できる。イヤだったことも今は全て思い出で、全てなつかしい。高校時代の思い出は?と聞かれたら”高校生活そのものが思い出“と答えるだろう。順番なんてつけられない。記憶なんてあいまいなものだし、いつのまにか忘れていることも多い。それでも箸が転がってもおかしい年ごろをこの高校ですごしたことは、一生忘れない。何が楽しかったかは答えられないけど、全てが大切な思い出なんだから。知らないことはまだたくさんある。だから前に進んで大人にならなくちゃいけない。私は90才になって死ぬときに、思い出に順番なんてない、全部が楽しかったって言える人生をおくりたい。後で後悔しないように、今だからできることもやっていきたい。今起こっているツライことも、これから起こる大事件ものりこえて行きたい。VIVA青春!VIVA自分!なんとかなるって。おしまい。「署名お願いします!」国立大学受験資格のない僕たちは今、学校をあげて署名運動をしている。署名運動を始める前、誰も相手にしてくれないんじゃないか、変な嫌がらせをされるんじゃないかと不安だった。しかし、道行く人々に声をかけてみると、意外にも多くの人が署名をしてくれた。署名を集めているうちに気付いたことがある。人々は皆、口をそろえて「そんな差別があるとは知らなかった」と、言うのだ。この差別が今まであまり公にさらされず、日本政府と在日外国人学校だけの問題になっていた。しかし、これを機に多くの人たちに事実を知ってもらおうと思い、署名を続けた。署名運動も半ばに差しかかった頃、不良っぽい高校生くらいの人、四人が近づいてきた。嫌がらせをされるんじゃないかと思っていたが、僕の考えに反して彼らは、「俺らも署名していい?」と尋ねてきた。そして彼らに事情を説明すると、「そんな差別、おかしい」「頑張ってな」と、この差別への反対と、僕たちへの励ましの言葉をくれた。こうして数時間の間に、多くの署名を集めた。今回の署名運動で、多くの人がこのような差別を知っていないことが分かった。みなさんには、マスコミの報道が僕たちの全てではないと分かってほしいし、今回の署名などを通じて僕たちのことを正しく理解してほしい。すりこみ、という言葉は周知のものであると思う。鳥の雛などが卵から孵って特定の期間に初めて見た物を記憶し、その後の行動の基本にするというものだ。孵化したアヒルの雛にゼンマイ式のアヒルの玩具を見せたところ、雛が親と思い込んでその玩具の後について行った、という実験結果も周知のことだろう。そんな雛を不憫に思う人もいる。我が子を奪われた本物の親を哀れむ人もいる。そういう自分もその中の一人だ。けれど、人は同情できる立場にはいないと思う。人も生まれた瞬間に、人の客観性に形作られた社会にすりこみをしているのだから。視野が広過ぎるために、人は生まれた時に社会全体を見つめてしまい、すりこみをする。そうして疑うこともなく、不確かな社会の後について行く。いや、ひょっとしたら、あるいは雛はそれが本当の親などではないということを知りながらも玩具について行くのかもしれない。人もその脆さに気付きながらも社会について行っているのかもしれない。ただ、どちらにしても、そこには何一つとして問題はないように思える。アヒルはアヒルの、人は人の視点から物事を見れば、そこに問題が見出される事はない。その事が重要なのだと思う。人の視点から物事を見つめる事を肝に銘じておけば、万事とまではいわなくとも、人はある程度の事にはバランスを保ったまま臨むことができる筈だ、と常々思う。まばたきをすることにすら疲れて僕は、目を閉じた。生まれてきてからどのくらい、まばたきをしてきただろうか。僕の瞳は、何枚の写真を撮り、心のアルバムにはどのくらい刻まれているだろうか。それは、喜怒哀楽が季節のように存在したものである。しかし、今の僕らは、日々の生活の中で今日という日を引きずって明日へ向かう一歩を踏み出さずにただ、うずくまっているように感じる。今日が終わらなければ、明日は、来ない。今を一生懸命に生きなければならないと思う。前へ歩き出さなければ、景色は、変わらない。新しい自分と出会うことはできない。自分自身を知るために、自分を見つめてみよう。見えてくるもの全てが自分となる。今日という日の中で、考え、思い、悩むことによって、多くのことを知ることによって、今を生きているという自信に変わってくると思う。僕らの世代は、心と体が結び合わずに、思ったことを行動にするのが難しい。先を行き過ぎる心を体が追っていくという状況の中、自分との葛藤に勝つことによって大人へと近づく。真の自分鹿児島県立種子島高等学校(鹿児島県)島友昭さん冒険者としての誓い平安女学院高等学校(京都府)雲岡梓さん古典の窓東福岡高等学校(福岡県)酒井聡さんすりこみ富山第一高等学校(富山県)小坂真紀子さん私の人生論(思い出編)大阪朝鮮高級学校(大阪府)高光宣さん署名運動をして