17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージReport2003 page 57/76

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17歳からのメッセージReport2003

よ。少しずつだけど、歩き始めてるよ。だから、どうかお父さんも小さくても一歩踏み出して下さい。昔のように戻れる日が来ると、私は信じています。私は今まで真面目でした。いえ、今も真面目でいい子を取り繕っているだけです。人の心に混沌と渦巻くものは誰にも分からないものです。他人にも自分にもです。私の「赤い日」から家族の私に対する態度は変わりました。単身赴任の父は週末になると必ず家に帰ってくるようになり、母は私にせかせかと気を使うようになりました。私は狂人なのでしょうか。たしかに、あの時の私の行為はもう取り消すことができません。震えるほどの恐ろしさと空虚な充実感を感じたのは事実です。しかし、こういう自己への永遠の挑戦心は誰にでもあるものではないでしょうか。私はこの無の永遠には全くためらいを感じませんが、なぜか有の永遠には戸惑ってしまいます。私の自尊心が崩れ落ちた時、私は私の人に救いを求めました。彼だけは「赤い日」も含め私の全てを受け入れ、私を狂人としてではなく、普通の女の子として見てくれます。彼は一途です。純粋です。人は自分にないものに惹かれるものです。私は彼の青い清流に惹かれているのであり、彼自身のことは愛していないのかもしれません。だから、彼との永遠の約束に戸惑っているのかもしれません。彼を裏切ることほどつらいことはありません。彼が私の生きるたった一つの理由であるからです。私はこれから大人になっていきます。正直、大人にはなりたくありません。これ以上汚れたくないからです。彼の心に近づきたいからです。ただ、それだけです。正直、僕には人とのふれあいとは一体何なのか、人とのふれあいの中で人は何を得ることができるのか、これまで何回も、そのことについて考えさせられることはあっても納得のできる答えをどうしても得ることができませんでした。僕は人との付き合いが苦手です。今までも多くの失敗をしてきました。やはり、その原因は、この答えが分からないからでしょうか。他の人は、人とのふれあいが一体どのようなものなのか知っているのでしょうか…。僕の疑問は膨らんでいくばかりです。最近では、そのことに対しての不安も大きくなってきています。何度か、その不安につぶされそうになったこともあったし、こんなことなら思い切って、人との関わりをできるだけ少なくしよう17歳からのメッセージ?[受賞作品集]??奨励賞?55と思うこともありました。でも、どうしても完全に人との関わりをなくすことはできませんでした。なぜなら、僕は人とのふれあいが何なのか分からないと言ったけど、人とふれあうことで僕は何か安心感を得られるからです。それは言いかえれば、自己の存在証明、アイデンティティーの確立のようなものともいえます。それに、これまでも多くの人に助けられ、元気づけられてもきました。それでも人とのふれあいで何が得られるのか、まだ納得することはできません。だから僕はこれからも多くの人とふれあいながら、その答えを探していくでしょう。僕には心から大切な女の子がいました。幼稚園以前からの付き合いで、腐れ縁か、運命の赤い糸か、はたまた神様の気まぐれか知らないが、幼稚園3年間と小学校5年間、計8年にもわたって同じクラスでした。はじめのうちは『いい喧嘩友達』感覚で、あまり気にならなかったのに、何を境ということもなく、彼女は自分の中で友達ではなくそれ以上の存在になっていました。その頃には父の仕事の都合で熊本へ転校してしまっており、遠距離恋愛という形で付き合いは始まりました。2、3ヶ月に一度は会いに行くことにしていました。彼女は会う度に眩しいほどの笑顔を見せてくれました。彼女の存在は温かく、僕に安心を与えてくれました。メル友のようなドキドキもなく、一目惚れのようなときめきもない。ただ穏やかで安心できる存在でした。しかし、その存在が淡い夢であったように、すべてが崩れてしまいました。彼女は16才という若さでこの世を去ってしまいました。急性白血病。僕は呆然としました。意識が朦朧としました。心に大きな穴の空いた僕は、しばらく手足が動くだけの人形となりました。何も考えられず、何も感じない。そんな状態の僕を立ち直らせたのは、「んなことでいちいちクヨクヨしてんじゃねえよ!お前が死んで、向こうに行った時、彼女に胸張って会えるように精一杯生きろよ!」という友達の言葉でした。乱暴な言葉の中にも彼女のような温かさがありました。僕はその時、精一杯生きることを心に誓いました。私は小学生の頃、戦争が終結してから一年後の旧ユーゴスラビアでのボランティア活動に参加しました。活動の内容は、未使用の文房具や生活雑貨の入ったB5サイズほどの大きさの袋を、各小中学校を回り手渡しをして配ることです。戦争が終結して一年経ったとはいえ、大きな道路には戦車や銃を持った警備員がうろうろしていて、街の建物は蜂の巣のようで、回った小中学校も壁が剥がれ落ちていたりなど戦争の傷跡はまだまだ残っていました。回った学校は学ぶために必要な用具、食事など全てにおいて足りない状態で、私の中の学校のイメージとはかけ離れていました。私たちの贈った日本からの大量の不要物をとても喜ぶ同じ年頃の生徒たちの笑顔は今でも忘れられません。私たちがどれだけ物に不自由をしていないかがよく判りました。そして、贈った大量の物が日本の豊かさを象徴しているように思え、また日本が平和であることを実感しました。この体験を通して私は、もっとこのようなボランティア活動に参加する人が増えるといいと思いました。また日本人の物に対する価値観を見直すべきだと思います。4月の終わり頃だった。学校帰りの私はバスを降り、向かい側の駅ビルで買い物をするため歩道橋を渡ろうとした。そんな私の肩を誰かが叩いた。振り向くと、金色の髪に青い瞳のおばさん2人が立っていて、私に何度も「?ミュージアム」と言ってきた。私が上手く聞き取れず困った顔をすると、1人が地図を見せてくれた。彼女の指差す所には『BOMB』の文字。原爆資料館のことだ。彼女たちは、私に原爆資料館へ行くには、どの電車に乗ればいいかを聞いていたのだ。でも、私の英語力では上手く説明できないので、電車乗り場まで案内し、単語を並べただけの下手な英語で、松山で降りることを伝えた。電車が来るまでの2、3分少し話をしたのだが、私が完全に聞き取れたのは、2人がアイルランド出身ということくらいだった。私の英語はメチャクチャだったと思うが、2人は電車に乗る際、何度も『サンキュー』と言いながら笑顔で手を振ってくれた。とても嬉しかった。簡単に外国へ行けたり、国際化社会といわれる現在、外国の長崎市立長崎商業高等学校(長崎県)小林和佐さん無題グローバル社会に生きる私愛知県立安城農林高等学校(愛知県)楜澤陽子さんボランティア活動を通して京都府匿名希望生きる兵庫県匿名希望無題熊本県匿名希望人の暖かさ