17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージReport2003 page 65/76

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17歳からのメッセージReport2003

17歳からのメッセージ?[受賞作品集]??奨励賞?63子供はそのことを知っている。大人が必死になって偽善や教育でごまかそうとしても、いじめや差別はなくならない。人は成長するほど矛盾を覚え、鈍感で厚顔無恥となっていく。それは悪いことではないと思うけれど、子供に一方向な偽善ばかりをおしつける必要もないだろう。子供は大人が思っているほど無知ではなく、大人ほどに無恥ではない。もし本当にいじめや差別をなくしたいと望むのなら、大人は偽善や建前ではなく、隠蔽した矛盾や本音を、子供に教えていくことが大切だと私は思う。ビニルハウスの天井一面には青空のプリントがほどこされているのだけれど、青地にはりつけられた雲が痛々しくてしょうがない。天の恵みなどといっても所詮はスプリンクラーからたれ流される栄養剤混じりの蒸留水。二酸化炭素に侵されたそれを浴びたいものだ。薬品のにおいしかしない、くさい霧は「アサモヤ」のフリをしてたちこめ、小さな命を奪ってゆくばかり。毒にむしばまれた虫は、足元の土にゆっくりと帰ってゆく。私の枝は幾本か切りとられ、傷口はうむこともせずにとじてしまった。いらない枝がなくなっただけで、それまでのように生きている。フ、と雑草にあこがれてみた。ヤツならアスファルトをも破る、ふまれるくらいではあきらめないではないか。こぎれいな温室育ちより、ずっと、ずっと、格好良い生きざまに思えてしかたがない。あこがれのあまり、快適につくられたビニルハウスを飛び出す計画を立てる。そして飛び出した者たちは気がつく。ああ、あのビニルハウスは自分のためだけのものだったんだ、と。温度はもちろん、湿度さえ私のためにあわせてくれた空間だったのだ、と。だから、もどってきて思う。愛されていないわけじゃなかったんだ、って。この間帰り道で、偶然アスファルトの隙間から出ている草を見つけた。どうということのない草だったけど、アスファルトの隙間から力強く出ているこの草に興味をそそられ、しばらく眺めていた。まだつぼみですらないこの草には、一体どんな花が咲くのだろう?ひとしきりまだ見ぬ花を想ってそこに佇んでいた。すると不思議なことにその草が、なんとなく私に似ているような錯覚に陥ってしまった。3日後、再びその道を通ると、既に草は枯れていた。花も咲かずに、誰に注目されることもなく、道端の草はそっと静かに枯れていたのだ。でも、「花が咲かなかった」というのは、私の勝手な思い込み。もしかしたらその草はその草なりにそっと花を咲かせていたのかもしれない。それはその草のみぞ知ることで誰にも決して分からないこと。今、私の花は一体どこまで咲いているのだろうか?まだ道に迷っている私には、自分のことがよく分からない。自分の花が今どれだけ咲いているのか、いやちゃんとつぼみは付いているのか…。できるならばいつか私も花を咲かせたい。私が咲かせた花で誰かの心を楽しませることができたら、私はどんなに幸せだろう。花が咲く日を誰よりも私が一番待っている。私のクラスのA君は、同じクラスのBさんに恋をしている。しかも実らない恋だ。実ると知ってか、知らずか、2回告白してフラレても、まだBさんを一途に想い続けているA君。一方、BさんはA君のことを”ただの友達“と思っているのは間違いない。A君はBさんのことを”暴走する僕を唯一止められる人“また彼の作ったポエムでは”都会に舞い降りた天使“とも表現されていた。アニメ好きでキャラの影響を受けやすいA君の言動には時々意味不明なところがある。一般の女性は、A君のナゾの言動を冷めた目で見ている。その点、BさんはA君の怪しげな行動を、笑って聞いてあげているのである。そういったBさんの優しさが、A君に”都会に舞い降りた天使“という考えをもたせたのではないだろうか?正確に言えば「都会に舞い降りた」ではなく、「僕に舞い降りた」であると私は勝手にスイソクする。ちなみに私のスイソクは100%当たっていると思う。A君は報われない恋をしている。しかし、彼は幸せそうに見える。それはなぜだろうか?きっと彼は報われない恋だと気付いていると思う。それを知っていて彼はなぜBさんに近づくのか?きっと彼はBさんと恋人関係になりたいのではないと思う。Bさんの側にいられるだけで幸せなのだと信じたい。彼の気持ちを十分わかっていながら、それに報いることもできずにいるBさんは何を隠そう、この私なのである。僕は、今すごく悩んでいる。それは、この年代の人ならみんな考えている。将来のことについてだ。僕のなりたいものは、歌手だ。僕は、人を癒すことができる歌を歌いたいと思っている。それとは別に、人を助ける介護士になりたいとも思っている。夢を追いかけて生きるか、現実を見て生きてゆくのか、大きな選択を迫られていることに焦りを感じている。今まで、日常生活の中で「歌」に興味を持ち、自分でも詞を書いたり、歌を歌ったりしてきたが、現実は甘くないということに衝撃を受けることもあった。詞を書くという事の難しさ、曲によって自分の声が出ないもどかしさなどを考えると、「自分には、夢を叶えることができるだろうか?」と不安に思う。歌を歌いたいという気持ちに嘘はないが、確実に成功するという保証は、どこにもない。着実な人生を歩みたいと思うなら、介護士を目指したほうがよいと思う。しかし、いつか自分の人生を歩いてきた道を振り返る時に後悔だけは、絶対にしたくない。職業を選ぶ上で大事な事は、悔いのない人生を歩むことだと思う。もし今までを振り返る時に後悔を少しでも感じたら、人生に負けたようで怖い。答えの見えない不確かな未来だが、不確かだからこそ「可能性」を「力」を秘めていると思う。人生に勝つためにも、今は、できる事を精一杯頑張りたい。ちょっと前まで「人の人生はすべて、その遺伝子の中に情報として前もって刻まれている」とかいう論理が妙な説得力あるものとして語られていたことがあった。私はそういうのを聞く度イライラしっぱなしであった。そういうことを主張したがる人が一体何が言いたいのかさっぱり解らないからだ。遺伝子というのは人の体の情報をその強弱を含めて持っている。それはその通りだろう。しかし、だから何だというのだ。人は病気になる。それを克服するために色々と医学が発展をしているのではないか。そんなもんに人生を決められてたまるか、とみんな努力している訳である。ではなぜ、事実そういったことを主張する人が存在するのか。運命は決まっていて逆らってもムダという論理は、人を不安にさせると同時に安心させるという奇妙な二面性をもっているからではないだろうか。それは従っていれば悩まなくても済むから安心というだけではなく、人間に必ずつきまとう運命というものを我が物として捉えたいという気持ちの表れなのかもしれない。そう、運命がもし本当に遺伝子によって決まっているなら、それは要するに髪のくせや爪の形と変わらないはずだ。櫛でとかせば髪型は変わるし、爪切りで切れば短くもなる。人は夢を見るし、その夢も運命で決められているのかもしれないが、一つだけはっきりしていることは、そのことであきらめる言い訳にはならないということである。自意識過剰かもしれないが。うん。徳島県立阿波高等学校(徳島県)中村真由美さん反抗期中西日本短期大学附属高等学校(福岡県)生清李奈さん花星翔高等学校(大阪府)野田千尋さんどうすれば…長崎県立宇久高等学校(長崎県)狹間隆司さんこれからについて…立命館高等学校(京都府)服部純子さん”うんめい“について