17歳からのメッセージReport2004

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17歳からのメッセージReport2004

いつからだったのだろう。私は上を向いて歩けなくなった。人の目を見れなくなった。常に周囲の目を気にし、背中は丸まっていき、笑みが消えた。自分が嫌いで、何かと友人と比較し、劣等感の塊であった。そのくせして人一倍自意識過剰。いつまでこんな自分と付き合っていかなければならないのだろう、涙で毎日目が腫れていた。しかしそんな殻は単純なことで一瞬にして砕けてしまった。彼は私を好きだと言った。ただそれだけだった。こんなささいなことだった。だけどそれは私にとって永遠であった。自分の存在を認められた気がした。明日、たとえ彼の気持ちが変わろうとも、そんなことはどうでもよかった。たった一度、今言われた言葉で一生上を向いて生きていける、そう確信した。私に不足していたもの、私が求めていたもの、それは『認められる』ことだった。他人に面と向かって言われたことがなかった私は、ずっと自分の存在に不安を感じていた。今は違う。太陽を浴びて、笑顔を振り撒くことができる。ようやく前へ歩き出せるようになった。私のような人は沢山いるだろう。だけどみんな独りだ。だからどうかあなたの隣にいる人に言ってあげてください。「あなたが好きです。」私は去年一月から八月までの七ヶ月間の間入院していた。十二月、足にいたみを感じたのがはじまりで検査をしていくうちにガンだという事が分かった。病名骨肉腫。初めはピンとこなかったものの辛い治療をしていくうちにいま自分は大きな病気をもっていて、一生懸命闘っているんだと実感した。病院には私と同じガンと闘う人が沢山いた。ほとんどは大人の人だったが二つ上のお姉さんとはとても仲良くなれた。もちろん大人の人とも。みんなで話していると私と同じ気持ちだったので治療の辛さをわかってくれる人達がいてうれしかった。そんな中一人、また一人と退院していった。元気になり帰っていく人をみてはうらやましかったりうれしかったり、薬がきかない人をみれば自分の事のように悔しかった。そして七月。私の七回目の治療が終わった頃、信じられない話を耳にした。四月に退院した人がなくなったのだった。とまどいながらこの時絶対完治し帰ろうと誓った。八月、私もようやく退院し元気に学校へ通っている。今年三月にはあのお姉さんもなくなった。だけど私はこれからなくなった人達の分まで精一杯生きようと思う。生きる中で辛い事も苦しい事もあるが、死ととなりあわせになってみて生きるよろこびを知った。いままで命について深く考えた事はなかったが尊いものだと思い知った。病院でお世話してくださったみなさん、支えてくれた家族、友人、そしてがんばってくれた私の体、みんなにありがとう。「私なんか生まれてこなければよかった。」中学1年のときの私は、何をするにもマイナス思考でした。その原因となってしまったのが、自分の手。私の手には障害があります。生まれつき両手の親指がほとんど機能せず、大きさも小指よりも小さいのです。鉛筆やお箸の持ち方など、何をするにもみんなと違う持ち方や握り方。小学生の頃は気にしないようにしていたので、小さな悩みぐらいにしか思っていませんでした。中学生になり、半年が経った頃から「何で私はみんなと違うの?なぜ私だけが…。」と自暴自棄に陥ってしまいました。初対面の人にさえ何か言われないか、気持ち悪く思われたらどうしよう、など良い方向へ考えることが出来ず、「どうしてこんな私を生んだの?」と私をお腹を痛めて産んでくれた母をも憎むようになりました。そんな私を変えてくれたのは友人の何げない言葉でした。「はっちゃんが思ってるほどみんなは何も思ってないよ。私はこの手好きだな。」と言ってくれた瞬間、私の中で重いものが一気に崩れ、軽くなった気がしました。それからの私は、自分の障害を私にしかない「個性」として受け入れることが出来るようになりました。今は自分の手が大好きです。今でも思い通りにいかないこともあるけれど、めげることなく前へ進みたいです。母を少しでも憎んだことを後悔しています。だから今は心から言える、「生まれてきてよかった。」と。十六歳の夏。私は、急に全身に激痛がはしった。眠る事の出来ない程の痛み。何が起こったのかわからなかった。日が経つにつれて症状は悪化し、起き上がる事すら出来なくなった。三歳から習っていたピアノもやめ、大好きだったクラブ活動もやめた。病院へ行っても適当な病名をつけられた。何週間経っても良くならないのを心配した母は私を大学病院へ連れていった。そこでくだされた診断に家族みんなは凍りついた。膠原病。全身の関節が次々に破壊されていく病気だった。即入院。毎日辛い検査をした。難病の為効く薬がなく、進行をとめる作用のある薬、抗ガン剤を飲んだ。髪の毛は抜け、毎日三十八度の熱。正直死にたかった。毎日辛い検査もした。しかし、入院中のある日、リハビリ室で車イスのおじいさんに出会った。おじいさんは私を見るとにっこり笑い、話をしてきた。何の病気か聞かれ私は詳しく話をした。おじいさんは最後迄聞いてくれた。その後、おじいさんの病気についてたずねた。小脳の病気。最後には心臓が止まり死んでしまうのだ。私は涙が止まらなかった。おじいさんはいつも笑っていた。正直辛いと言っていた。しかし辛いからといって現実から逃げてもどうにもならない。そう教えてくれた。私はその一言がキッカケで前向きに生きようと思えた。どんなに辛くてもしんどくても、この先何があっても、ずっと笑っている。私はそう決心した。「どこの学校行ってんの?」その言葉に私の心臓の鼓動がドクンと大きく鳴る。言葉がつまる。言おうか言わまいか迷う…。すると横にいた日本の友達のあさかが言った。「朝鮮学校やで!」相手の顔が曇った、やっぱり…。今までもこんな事は何十回もあった。でも全然慣れなく、毎回傷つく。しかし、今回は違った。「なんで?あかんの?」うつむいていた私の耳にこんな言葉が入ってきた。私はびっくりして顔を上げ、あさかの方を見た。あさかはにっこり笑いながら相手の子を見ていた。「朝鮮人やからってうちらと全然変わらんで!日本語もペラペラやで!」この言葉にそこにいた3人が笑顔になった。後で、あさかが言った。「ほんまはあの時、めっちゃむかついて、にらんだろうと思ってん。でも怒っても誤解が解ける訳じゃないし…だから笑ってん!それにあんた隠す事ないで!胸張って自分の学校が一番!って自慢したったらええねん!」私は嬉しかった。私の周りには日本の友達がたくさんいる。でもこんな言葉を言われたのは初めてだった。私はあさかに何度もありがとうと言った…。その日から私は変わった。今の私なら何も怖がらずに、胸を張ってあの言葉を言える…「私は朝鮮学校に通っています!」生きる、という行為は選択肢の集合体、つまりあらゆる可能性の中から「私」というものを選びとる作業の連続なのではないだろうか。札幌聖心女子学院高等学校(北海道)瀬川早絵さん上を向いて歩く17歳からのメッセージ[受賞作品集]??銀賞?9点?54銀賞?今までの自分、これからの自分?テーマ?北陸学院高等学校(石川県)清水志織さん私の財産・大事な経験愛知県立半田農業高等学校(愛知県)清田初名さん私の個性明浄学院高等学校(大阪府)岡本有希さんおじいさんが教えてくれた小さな事大阪朝鮮高級学校(大阪府)金晶姫さん胸を張って言える言葉大阪府立三国丘高等学校(大阪府)坂中愛実さん人生の可能性