17歳からのメッセージReport2004

17歳からのメッセージReport2004 page 12/40

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17歳からのメッセージReport2004

銀賞?17歳からのメッセージ[受賞作品集]??10望むと望まざるとに関わらず、私達は日々を、否、一瞬一瞬を決定しつつ過ごしている。けれども実は、逐一の決断が己の可能性を狭めていっていることに、私達は普段あまり気付かない。大学受験を控えた今でも時折、私が「蒔絵職人に弟子入りしていたらどうだったろう。」などと夢想するのは、かつての私にはそのような生き方が思いも寄らなかったからに他ならない。視野の狭さゆえに失われる可能性、無意識のそれを甦えらせるのが学びだと思う。政経の先生が自分を死刑廃止論者だと仰ったとき、私は死刑制度が日本に残っているのは、「死によって詫びる」というこの国独特の発想に基づくのではないかと思った。国際化と叫ばれ出して久しい昨今、こういった表現や文化の背景に気づくことは必要であるし、何より私は知りたくてたまらないのだ。果てしない知識欲は己の世界を深め、可能性を広げる。私は生涯、自分の可能性を広げ続ける人でありたい。うちの高校は忙しい。学校行事に力を入れているから。専門教科の課題が多いから。他にも色々あると思うけれど、とにかく忙しい。私はバイトも部活もしていないのになんで、普通の女子高生ならもっと友達とカラオケに行ったり、買い物をしたりしてるはずでしょ、と思うことがある。そして時には、忙しさの波にのまれるあまり、「私の青春を返せ!」と叫び出したくなったりもする。もしかして私の人生で一番良い時期は、何の力も発揮することなく過ぎてしまうのではないだろうか……。でもそんな不安を抱きながらもなす術はなく、ただ毎日が過ぎていくのだった。ところが、最近行事に取り組みながらふと気付いたのだ。忙しいながらも真剣なみんなの目、そして、楽しさややりがいを感じている自分自身に。ああ、そうか。私の青春はこの忙しさの中にこそあったのだ。悩んだり、迷ったり、先の見えない不安にかられたりしても、真っすぐ前に向かって走り続けたいような衝動を青春というのなら、私のそれはきっともう始まっている。やっと分かったけれど、私のすべきこと、それは、今この瞬間を一所懸命に生きることなのだ。私は今、十七歳で未成年だ。まだ成人ではない。別に学生が嫌だということではないけれど、私は早く大人になりたい。それは、自立したいからだ。自立というのも一人暮らしをするとか、そういうことではない。何でも自分のことは自分で決める自立をしたいからだ。私は今まで何をするにおいても、親や友達、先生といった身近な人達を頼ってきた。あと数年すれば二十歳になる。全てのことにおいての責任は自分自身がもつ、という年齢になるのだ。そして今、十七歳という年齢である私は、この『責任をもつ』ということは『自分を年齢だけの成人にならさせない』ことだと思う。以前、現代文の授業で『大人への条件』という文章について学習した。それには、『今の社会には、昔のようにはっきりとした成人になったという通過儀礼がないので、成人と子供の境界線が薄れてきている』と書いてあった。確かに、今の世の中では、見かけだけの大人が大勢いて、世間一般のモラルに追いつけていない人もいる。そして、私はそれは『責任感』にあると思う。常に感情的になりすぎず、理性を働かせて、自分自身をコントロールする。それは、自分の言動がどのように周囲に影響を及ぼし、それにより、どんな過程と結果が生じるのかということを早く理解する第一歩だと思う。私は、二十歳になった私に『責任感』を大事にして欲しいと思う。私は自分が好きだ。自分が自分を愛さなければ何も始まらない。自分の中の嫌いな部分もたくさんあるが、それ以上に自分にはカッコイイところもあると、どこかで信じている。信じなければ動き出せない。誰しも自分のことは愛しいと思う。よく、自分が嫌いだという人もいるが、なぜ嫌いなのかじっくり考えてみれば、その問題は自分の中にあり、直せるものも多いと思う。私は、自称ナルシストと最近言っている。私は自分が好きなことをみんなに宣言しているのだ。同時に、私はまだ子供なので、自分の命と引きかえに人を救えるほど大人ではないし、チャンスがあれば自分が幸せになりたいと、ちゃっかり思っていることをアピールしているのだ。いつまでも私の中でのカリスマは私であってほしい。それは私がこの命を終わらせる日までだ。それぐらい、自分には期待しているのだ。自分を愛することは難しくない。だって、自分と自分が戦ってどうなるって話だ。自分は一番の仲間にしておいたほうが楽しいし、全てはそこから始まっているのかもしれない。私の考えを、全く理解できない人もいると思うが、ナルシストな私はこう思う。最期は自分に殺されたい。三年前。中学校の音楽室で顧門の先生に見せられたビデオがある。吹奏楽部で有名だという高校の特集番組だった。その人達の演奏を聴いてもちろん感動した。しかし疑問も感じた。それは、”この生徒達は学校を卒業したら音楽にはほど遠い工業の仕事につくんです。“という言葉を聞いたからです。中学入学してから高校三年になるまで、私はただコンクールで金賞をとることだけを考えて練習してきました。どうしてあの人達は全国大会に進むまで上手なのに…もったいない。こんな思いを持ったまま、自分の目標はまだ達成されず、あと少しで引退というところまできた。その時になってやっとあの疑問が解決できたと思いました。あの人達にとって金賞をとることは、自分の成長を見つめるほんの一部なんだと感じたのです。目標は、その結果が大事なのではなく、結果を出すまでの間に自分をどれだけ成長させることができるかが大切なのです。その成長の中に、友人関係や努力、色々含まれると思うけど、全ての事をクリアし、少しでも自分が成長したら、ごほうびに金賞をもらえると私は思いました。金賞をとらなくてもいい。言い訳と思われるかもしれないけど、私は残りわずかの部活動で改めて新しい目標に向かって頑張ろうと思います。私の目標、最後まで仲間と一つになる、こと。今までの私を音に例えてみた。きっと伸びるような音ではなかったと思う。ず太く低い音。そして鍵盤を離すごとに音はすぐ途切れ、つながりがない、そんな感じだったと思う。確かに私は今までを振り返ってみると、小さな頃から負けず嫌いだったし、人と全く違うことをしたがり、まねをされるのも大嫌いで、友達も関係なくケンカを売っていたこともある。記憶を振り返ると案外悪い部分しか思い出せない所が少し残念だが。でもその悪ガキぶりが低くず太い音そのものだと思う。もちろんそんな面ばかりを音で表しているのではないけれど。今まで、そして今の私には何か途切れる部分がある。それは、ひどく人見知りするという所なのかもしれない。もう少し友好的な性格であれば、何かつっかかったりはしなかっただろうと最近になり、ますます考えるようになった。性格を急に変えるなんて無理だ。その性格が『私』なわけだから。でも少しずつ変えていこうと努力さえすればきっと変えられるはず。私はそう信じこれからの為につっかかる部分を長く長く響くように変えていこうと思っている。将来には、皆の心に深く優しく響く『私の音』を、綺麗でなくても強く届け、沢山の人が何かを得ることができ、同時に私自身にも、少しでも学ぶ何かを得られればと、日々新しいものに目を向け、これからの自分へと変化を伝え続けていこうと努力している。大阪市立工芸高等学校(大阪府)菅生悠希さん17歳、私の青春大阪女学院高等学校(大阪府)山田有香さん十七歳からの私兵庫県立尼崎西高等学校(兵庫県)麻植夕貴子さん無題兵庫県立神戸甲北高等学校(兵庫県)平井里美さん本当に大切なこと。和歌山県立那賀高等学校(和歌山県)南友理香さん私の音