17歳からのメッセージReport2004

17歳からのメッセージReport2004 page 18/40

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17歳からのメッセージReport2004

銀賞?17歳からのメッセージ[受賞作品集]??16主人は前に立っていた。私は学校のある駅からずっと座っていたので、席を譲ろうと思った。緊張感。私はまだ過去に席を譲ったことがなかった。電車の中で席を譲っている人を見ると、「あぁ、すごいなぁ。」と密かに尊敬の念を抱く。しかし、その時は別に、誰かから尊敬されたいだとか優越感にひたりたいとかそういった意図的なものではなく、自然と「譲るべきだなぁ。」という感情が生まれただけであった。言葉がなかなか出なかった。罪悪感。私はおもいきって言った。が、おじいさんは断り、おばあさんは謝った。なんだか悪いことをしたような気分になった。甘えと遠慮の境界はとても難しい。「親しき仲にも礼儀あり。」と言うくらいだから、ましてや他人の、しかも二度と会うこともないような人には遠慮してしまうだろう。しかし、席を譲られた場合の遠慮は相手を傷つけることになりかねないことをわかってほしい。だから私は「甘えてください。」そう言いたい。実験用の迷路に迷い込んだネズミは、自分のまわりのしがらみから逃げてきたつもりだった。両親はエサを十分に与えてくれなかった。学校の先生はネコから身を隠すことばかり教えた。もううんざりだ。だいたい自分は何だ。小太りで、薄汚い毛皮を身に付け、ドブの中しか知らない。従う奴なんていないし、恋人にも逃げられた。この道の先だ。この道の先は明るい!ネズミは泣いていなかった。涙は枯れてしまったのかもしれない。それに、ネズミは翔ばなかった。決して翔べやしないことを知っていたのかもしれない。もうすぐ、というところで突然奴が現れた。奴だ、いつも奴だ。いつも奴は邪魔をする。ネズミは声を荒げて、「どうして!」と、問うた。奴は無言だったが、その見下した目で突き刺してきた。ネズミは動けなくなった。くやしい。奴がいると何もうまくいかない。憎い、心から奴が憎い。奴が消えてくれない限り、どこへも行けやしないんだ。いっそこの場で殺してやりたい!ネズミは牙をむき、全速力で向かっていった。今にして思えば、奴はネズミ自身だった。そこには鏡が差し込まれていただけだった。敵は、自身、なのか。『ゆとり教育』という言葉が世間に知れわたったのはいつごろだったでしょう。犯罪の低年齢化が叫ばれ、心のゆとりがいつの間にか教育の場に目が向けられた。世間はそれを当然のように受け入れていった。私はその状況に少し違和感を感じた。「親の顔が見てみたい」いつの間にか聞かなくなったこれに変わり「どこの学校を出たんだ」と耳にするようになった。幼い私の目には、それは親が責任を回避しているように思われた。しかし、実際は子どもの人格の形成は世の中がどれほど移り行こうとも家庭環境によって形作られていくことは変わらない。つまり、犯罪の低年齢化は大人たちがどんどん問題を回避したことにより、問題が解決されないまま放置されている。まるでそれを覆い隠すかのように『ゆとり教育』が与えられた。けれど、教育の場は決して心のゆとりを取り戻せないだろう。なぜならば、ゆとりが育まれるのは、日本が失いかけている人とのふれあいや自然とのふれあいによっておのずと育まれるからだ。もう一度、子どもを見つめ直してほしい。子供でもなく、大人でもない。十七歳の今の私。どこまでが子供で、どこからが大人なのだろう。はっきりとした境界線があるはずもなく、私は少し迷いをもちながら毎日を生きている。けれど、これで良いのだと思う。もし今の私が大人だと断言されても、きっと何も変わらないだろうし、変えようとしないだろう。よく周りの大人はこんな風に言う。「いつの間にか大人になっていた。」このセリフは、いつか私も自然に言える日が来る。けれど結局、私は見えない境界線を知らず知らずの間に通り越してしまっているに違いないだろう。すべての大人は、そうやって大人になったのだ。考え方が大人でも、大人っぽい外見をしても、周りに「大人っぽくなったね」と言われても、案外子供な人が多いのではないだろうか。少なくとも私はそうだから。時や場所で都合の良いように子供と大人の境界線を行ったり来たりしてみせるのは、背伸びをしている子供だからだと思う。この都合の良い見えない境界線は、今だからこそ作れるものだ。子供の復習をしたり、大人の予習をしたりして楽しめるのはきっと今だけだ。中途半端かもしれないけど、私は子供と大人の真ん中にいる。それでいいと思う。子供でもなく大人でもない。十七歳の今の私。私は、今が好きだ。だから、このときを、今を、十分に楽しんでいきたい。今、起こっているいろいろな事件などについて知りたいと思ったなら、インターネットなどで調べることはできるが、やはりテレビを見るだろう。しかし、事実について知りたいと思っていても、必ずしもそこへたどり着けるわけではない。イラク戦争がいい例だ。アメリカ兵が市民から石を投げられている場面には、めったにお目にかかれない。確かに大規模なテロなどが起こると、その情報はすぐに飛んでくる。だが、今、テレビで流れている映像が、イラクで起こっている全ての事件だとは、とうてい思えない。これは、アメリカ軍の情報操作のため、仕方ないことなのかもしれないが。他にも例はある。ニュースで国会の一部が流れている時がある。首相や政治家が、いろいろ問答しているが、揚げ足をとりあう実にくだらないものもある。しかし、法案の審議もされている。なかなかまとまらない気もするが。つまり、視聴者は、番組作成者の価値観を、テレビを通すことで受けとっている。誤った情報を含んでいてもだ。「情報を取捨選択できる賢い視聴者」になど、本当になれるのだろうか。特にテレビ、新聞などが全てを書くこともできない戦争などの話題では。しかし、自分の知ったごくわずかの世界が、まるでそれ全体のように思ってしまい、それをもとに他人と話したりしてしまう。情けないとは思わないのだろうか。今まで、沢山の嘘をついてきた。自分を偽ったりもした。自分の為ではなく、全て誰かの為だった。誰にも迷惑をかけたくないから、無理して演じた。誰にも心配をかけたくないから、無理して笑った。偽り続けた「私」は、オリジナルの「私」が消えた。そして、嘘と偽りで作られた仮面を、整形したように素顔のようにつけている。本当は誰かに言いたかったし、気づいて欲しかった。だけど、誰も私の演技を見抜けない。それほど、私の存在って小さいのかな?限界を感じた時、死のうと思った。自分が犯した行為で自分を傷つけていた。でも、根性なしのへたれだから、死ぬこともできない。改めて、自分の愚かさに気づいた。生きることも死ぬこともできない、つまらない日々だけが、無情にも過ぎていく。誰か、私を助けてください。いや、助けてなんて高望みはしない、たった一言でいい、「大丈夫」を。できることなら、私に生きる道を与えてください。ポジティブで底抜けに明るい私ではなく、ネガティブで傷つきやすい私を、受けとめてください。私が枯れてしまいそうな花だったら、あなたは生きるための水を注いでください。素の笑顔という、きれいな花を咲かせたいから…。早大阪府立三国丘高等学校(大阪府)梶原佐里さん今にして思えば大阪女学院高等学校(大阪府)喜多千佳子さんゆとり教育について大阪府立河南高等学校(大阪府)東野奈緒美さん境界線大阪星光学院高等学校(大阪府)堀口辰也さん報道大阪府匿名希望嘘と偽り