17歳からのメッセージReport2004

17歳からのメッセージReport2004 page 25/40

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17歳からのメッセージReport2004

17歳からのメッセージ[受賞作品集]??奨励賞?23人間不信めいたものになっていた。素直に感情表現できず強がっていた。その頃CHATを始めた。このパソコンを介した会話は、その頃の私に安心感を与えてくれた。私のことを知らない相手であり、目をあわせて喋らなかったからだろう。だが今となってはあの頃支えてくれたネットの友達がいたから今私はここにいてられるのだとも思う。真剣に語り、だめなトキはマジになってそれはちゃうやろって怒ってくれる。ウレシイことがあると同じように喜んでくれる。歳も生活スタイルも考え方も様々なこの友達は、私に多くのものを与えてくれたし、今もいろんなモノをもらっている。ニュース等からみると、ネット内は危険なモノかもしれない。でもやっぱり今の私にはリアルでここまで熱く色々な話題をストレートに言いあえる環境はナイ。だから私はこのネット内のトークも大スキだ。言えば”喋り場“のようなモノ。そしてこれから先リアルで会った人ともこの喋り場がくり広げられるようになればいいなと思うし、なりたいと思う。今はでもまだこの世界に頼っている。はげましてもらってる分もっと頑張らなって今は思う。部屋の一番目立つ所にある、一枚のプリント。自分を変えた出会いの証。それは中三の春、職員室で。当時、部活の副キャプテンをしていた私に先生が一言。「この子、水泳部に入るから。」紹介された一人の一年生。笑顔の可愛い、普通の女の子。ただ、耳には補聴器。私は固まった。前から難聴のセンター校ということは知っていた。同学年に難聴の友達もいた。でも私は、心のどこかで偏見を持っていたのかも知れない。その場は笑顔で切り抜けたが、やっぱり彼女が気になる、気になる、気になる…。帰る前、もう一度職員室に寄り『指文字』のプリントを貰った。その日から私の生活は彼女色に染まった。指文字だけでなく、手話も必死に覚えた。何度も練習し、やっと出来るようになった自分の名前…。笑ってしまいそうなぐらいぎこちなかったが、彼女は理解してくれた。思わずガッツポーズ。手話…最高!本当に嬉しかった。中学を卒業した今でも、彼女とは仲が良い。もし、彼女と出会わなかったら?想像しただけでゾッとする。彼女のお陰で手話とも出会えたし、何より障害者に対しての偏見がなくなった、と言っても過言ではない。そう思うと、自分が恵まれた環境に居るということがわかる。彼女という一人の人とのふれあいの中で、私は自分自身を成長させ、大きく変わることができた。ずっと大切にしていきたい。私と人と心とのふれあいを…。体育祭の準備期間の事でした。僕はアトラクションの副班長だったので、みんなにつきっきりで指導して…いるはずが、その日は知り合いのお兄さんに服とCDを譲ってもらえるという事で約15分程抜けさせてもらいました。さっと品をもらい、練習場所へ戻ろうと自転車にまたがって駅から出発しようとした瞬間でした。『ガラガラガシャン』柵越しにいた買い物帰りのおばさんが二・三台自転車を倒してしまったようです。でも周りの人は無視で素通りしていきます。みんななかなか冷たいなぁ、と思っているとおばさんは自分の自転車を持って向こうへ行っちゃいました。アレ?なおさんの?僕は素で見ていたのですが、それより自転車を!柵越しですが、僕が一番近いし見てた訳で。さっきもらった服やCDの入った袋で右手がふさがり左手で自転車から降りずに一台目を何とか立てると、おばさんが戻ってきました。柱で見えなかったけど、自転車を止めに行ってたみたいです。心のどこかで少し、安心しました。それから、おばさんのか弱い力と僕の片腕で残りも立てました。「本当に助かりました?。ありがとう。」おばさんは笑顔で言ってくれたので、「いえいえ。」と笑顔で返礼しました。もしこの場所にいなかったら、この温かい気持ちはもらえなかったんや。おばさんを見送りつつ僕はそう考えていました。ほんのささいな事でした。でもその後の練習は心なしか明るい気持ちで頑張れました。私の姉は、壊れてしまった。否、正確には壊されてしまった。この腐った社会に。そして妹である私に。最初に違和感を覚えたのは、私が中二で姉が高一になった春だった。姉は第一志望の高校に受かり、とても喜んでいたのに、通いはじめて一月もすると学校に行きたくないと言いだした。私はまたいつものワガママか、と相手にもしなかった。この時、ちゃんと話を聞いてやればよかったのに。後悔先にたたず、とはよく言ったものだ。姉はイジメにあっていたのだ。その事実に私が気付いた時にはもう遅かった。否、まだ間に合っていたかもしれない。私が…とどめをさしたのだ。三年前の私はなんと未熟だったのか。私は事もあろうに、姉に対しこんな感情を抱いた。「イジメにあうなんて、なんて情けない。」私までもが。唯一の妹である私までもが、姉を拒絶してしまった。敵側にまわったのだ。相談されても軽くあしらい、挙げ句罵声を浴びせた。寄り所の失くなった姉は現実から逃げた。そして精神病院に入院するまでに。いくら謝っても足りない程に私は姉を傷つけた。なんとか復活して、東京の大学に通いはじめた今でも私はあわす顔がない。姉は私に笑いかけてくれるが、私は笑い返せない。そんな権利、私にはない。もう、ない。でも私はずっと願っている。誰よりも幸せになって、と。私よりも、誰よりも。そうしたらきっと私は笑いかける事が出来ると思うから。ごめんね、お姉ちゃん。私が一番大切に思っている人は、2歳年下の弟です。弟は知的障害児で、上手く言葉を話すことが出来ません。だから周りの人とコミュニケーションをとることが困難です。正直なところ、13年間一緒に住んでいる姉の私でさえ弟が何を考えているのか分からないことがあります。でも、弟は人なつこくていつも私にくっついてきてくれるので、言葉では言い表せないほど可愛いです。私は高校生になり、以前よりも自分の将来について考えるようになりました。普通、子供よりも両親の方が先に死んでしまいます。そうなると、私と弟は2人きりということになり、2人で生きていかなければなりません。私が弟を助けてあげなくてはいけないということは感覚的に分かっていて、当然だと思っています。弟は私にとって本当に大切な存在なので、絶対に一緒にいてあげたいと思っています。でも、私1人でそんな大変なことが出来るんだろうかと心配です。両親は2人で協力して弟の面倒を見ていますが、それでも毎日疲れた顔をしています。もちろん私も家族の一員として、弟の面倒を見ていますが、同じ子供として遊び相手になっているだけなのです。将来本当に両親がいなくなった時、いつまでも遊び相手ではいけないと思います。でも両親の様に時に厳しく時に優しく接してあげられる自信がありません。私は今15歳。いつか「私と大切な弟は2人でも大丈夫」と自信を持って言える日が来ればいいなあと思います。「いい加減にしろ!」という父の声で、罵声がとびあっていた部屋がシーンと静まりかえった。これは私が高校二年のことでした。父の会社は当時経営が苦しく、給料もかなり減給し、家の中は暗くピリピリした空気でした。そんな家の雰囲気をどうすることもできずに苦痛の日々が続きました。私は、幼児教諭になることが夢でした。進路ももちろん進学を希望していましたが、父に「金銭的な余裕がないから進学させてやれない。」といわれました。ショックで泣き続けた日もあったし、イライラして大阪府立八尾翠翔高等学校(大阪府)井谷未来さん私と人と心と大阪府匿名希望お姉ちゃん大阪府立泉陽高等学校(大阪府)竹中希望さん私の大切な人大阪府立東住吉高等学校(大阪府)岡田司さんほんのささいな事なんです。園田学園高等学校(兵庫県)赤松沙織さん家族は宝物