17歳からのメッセージReport2004

17歳からのメッセージReport2004 page 26/40

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17歳からのメッセージReport2004

母とケンカをする日々が続きました。ケンカをした日は後悔したけど、その時はどうしても止められませんでした。そんな日々が続き、私は相変わらず母とケンカをしていました。それも父の前ででした。父の事など気にする余裕もなく母と口論していた時に、父はあの言葉を叫んだのでした。「もう止めてくれ」と父は涙をこらえながらいいました。その時、初めて今の状況が一番つらいのは私や母ではなく父なんだということに気がつきました。自分の感情だけをぶつけて両親の気持ちを考えなかった自分が許せなくて、泣きながらあやまり続けました。色々話し合い、私は進路を就職に決めました。今度は、私が父母を支える番で、早く恩返しがしたいです。たくさん助けて支えてもらった分、次は私が助けたい。今はそんな気持ちでいっぱいです。家族は私の大切な宝物です。手話とは何か。テレビや街中で時々見かける。発語および聴覚障害者が使用する手話。私には遠くかけ離れた世界だと思っていた。高校2年の夏、私は右耳が聴こえなくなった。吹奏楽部に所属しているのだが、職業病ならぬ部活病といったところか。目の前が真っ暗になった。(もう右耳は使えない、もう聴こえない……)数日間の入院生活を経て、私は学校に戻った。正直すごく恐かった。周りにいる人はみんな耳が両方とも聴こえる。誰も私の苦しみなんて理解してくれないだろう、そう思っていた。ところが違った。話す時はなるべく左側から話してくれるようになった。大きな音が鳴っている場所はわざわざ避けてくれるようになった。私は本当にうれしくて、心の中で泣いた。私はたくさんの人に支えられている。友達、先生、そして家族。何か自分にできる事はないのか、そう思うようになった。そんな時、手話の事を思い出した。耳が聴こえない人に、私に何か出来ることがあれば、私の周りの人々が私にしてくれたように、聴こえない人の心に花を咲かせたい。今、私は手話を勉強している。少しずつだが、耳の聴こえない人のために精一杯出来る事からやっていきたい。それが今の私に出来ることだと思う。自分は今現在学生という身分なので、よくコンビニに行く事が多い。レジでお金を払う時、店員はさまざまでそれぞれ態度が違う。「ありがとうございました」を言うのに、いろんな表情がある。笑顔で言う人、よそ見をして言う人、笑顔はないがちゃんと目を見て言う人、それぞれ人の個性によりお礼の言い方が違う。単にそこの店の指導が悪いのかもしれないが、でも最後にお礼の「ありがとうございました」を言わない店員はいない。自分が疲れた時や、気分がのらない時なんかは、やっぱり笑顔で「ありがとうございました」と言われた方が自然に自分も笑顔になり、何だか元気が出てくる。だから自分もバイトをする時のお礼は、出来るだけ笑顔でふるまうようにしている。中学時代、訳あって一人で街に遊びに行った事がある。その時は、すごく孤独さを感じた。何をするにもしゃべる事はなく、困った時も相談する事は出来なかった。家に帰る前に、ファーストフードに寄った。そこで人とはその日、初めてしゃべった。いつも何げなくしゃべる口調が重くなって、僕は思った。人とふれあうということは、こんなにも自分にとって大事なことなのだと。人とふれあうことは、自分にいろいろな事を教えてくれる自分を成長させてくれる。これからも、人とのふれあいを大事にしていきたい。僕は、横浜から母の実家のあるここ大分県の国東町に引っ越して来ました。僕はちょっと人見知りの傾向があったので、ここにきてあることに本当に驚きました。それは「あいさつ通り」でのあいさつでした。僕が引っ越した所の通りがこのような名前だったのです。この「あいさつ通り」では、朝昼晩を問わず、あいさつをしなければいけないということでした。最初はそういったことを知らなかったので、見知らぬ人から声をかけられたと思って内心はかなりアセっていました。しかし、「あいさつ通り」の存在を知り、毎日続くあいさつの受け答えによって、徐々にではあるけど人見知りの傾向がなくなっていきました。そして、高校3年になった今では、自分から積極的に、しかもあいさつ通りではない所でも、すれ違う際にあいさつをかかさずに行っています。今の僕があるのは「あいさつ通り」での他人とのちょっとしたコミュニケーションである、そしてまず最初のきっかけをつくるための「あいさつ」のおかげだと思っています。人とのふれ合いは、まずは「あいさつ」から始まるんだと思います。なかった。番号がなかった。頭が真っ白になって何も考えられなかった。その日は、剣道二段の昇段審査の日だった。私は、実技の審査で落ちてしまった。「そんなはずはない」そう思って何度も何度も確認した。だけど、見つからなかった。それから私は、ひたすら笑顔を作り続けた。親にも友達にも落ち込む素振りを見せず、「しょうがないよ」と笑い、心の中では悔しくて泣いていた。その日の夜、ある父兄の方から一本の電話を頂いた。「あなたが今日得たものは、すんなりと受かった人よりも何倍も何倍も大きいものなんだよ。少しくらい寄り道してもいいんだよ。いっぱい寄り道して、素敵な大人になりなさい」これを聞いたとき、涙が止まらなかった。体中の水分がなくなる程たくさん泣いた。私は、あの電話がなければ一日中ずっと笑っていたのだろうか。あの言葉に救われたものは大きかった。このとき私が得たものは、悔しさと支えてくれる人の優しさだった。私は、あの言葉をきっと一生忘れない。いや、忘れたくない。あの言葉があったからこそ、今の自分がいる。これからも支えてくれている人がいることを忘れず、生きていきたい。「まや…どうしよう…」友人のなおが泣きながら話してきた。私は、”どうした?“の意味を込めて頭を2回たたいた。なおは、重い口を開いてくれた。なおは、中2の時から家族のことで悩んでいて、誰にも言えず一人で抱え込んでいた。しかし、日々つみきのように重圧がのしかかり、とうとう耐えきれなくなった…と、声をからしながら話してくれた。深刻な悩みを話してくれるなおに、私は胸が熱くなった。何かなおを励ます言葉をかけたかったけど、私はただうなずき、聞くことしか出来なかった。そんな自分が無力で仕方なかった。なおは、話し終っても泣きやまなかった。むしろ、激しくなっていた。だけどなおは、「ありがとう。何かすっきりした!!」と、笑顔で言ってくれた。ただ聞くことしか出来なかった自分の行動が、正しいのか分からない。だけど今思うと、この行動がなおを励ます一番よい方法だったと考えている。勉強や車の運転には、マニュアルがあって、その通りにすればうまくいく。だけど、友情というものには、マニュアルなんてないし、もしあったとしても使いたくない。私は、私なりの友情を築いていきたい。私の祖母は人とふれあうのが大好きです。でも話すときに何を言っ奨励賞?17歳からのメッセージ[受賞作品集]??24鹿児島県立種子島高等学校(鹿児島県)安山睦美さん私の大事な大事なおばあちゃん和歌山県立星林高等学校(和歌山県)大中円さん無題広陵高等学校(広島県)松尾直哉さん人とのふれあいの中で…大分県立国東高等学校(大分県)鈴木孝承さんまずは「あいさつ」から…鹿児島市立鹿児島女子高等学校(鹿児島県)有馬美和さん私の得たもの鹿児島県立指宿高等学校(鹿児島県)今藤麻矢さんマニュアルのいらないもの