17歳からのメッセージReport2012

17歳からのメッセージReport2012 page 13/48

電子ブックを開く

このページは 17歳からのメッセージReport2012 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
17歳からのメッセージReport2012

12 17歳からのメッセージグランプリ学生審査員賞金賞銀賞奨励賞学校特別賞応募参加高校一覧17歳からのメッセージねん。私は素直にそう思った。言ったことができないと言っているのにそれを言わないってどういうこと?そう思ったら母に「言うてやらされるんじゃなくて言わんと決めたことをコツコツやったらええやん。」と言われ、あぁ。そう言う考えもあるのか、と納得した。私は今まで「これからこうするから。」その言葉を何回も言って来たがそれを実行することはなかった。きっとその言葉を吐くことで実行した気になっていたのかもしれない。つまり、言葉に甘えていたんだろう。不言実行というのは、あれこれ言わず自分で行動することで、自分で信じたことを行動に移すこと。考えて行動しないとダメだと思った。あれから少し意識して考えて行動してみたら、「あんた最近言わんくてもやるようになったな。」と、少しホメられて、「これで良いんや。」と自信が持てた。これからは口先女ではなくて、自分で考えて行動しよう。座右の銘は『不言実行』!履正社高等学校(大阪府)國井達朗さん無題僕は小学校三年の時、父の仕事の関係で、長野県の小学校に転入した。転入してからすぐに、急に担任の先生が「そろそろお蚕さんを育てようか。」と言いだした。僕は「お蚕さんて何?」と思った。するとみんなが「蚕さんはかわいいよ」と言ってきたのでますます蚕さんに対するぼくの関心は高まった。すると、小さな箱の中に、小さな黒いものがうごめいていた。これが蚕?蚕は虫だったのだ。聞くところによれば、蚕のはく糸を利用して何か作ろうというのがきっかけだったのだ。いきなり卵を渡された僕はすごく戸惑った。なんでいきなりこんなものを渡されて育てなければならないのか。僕はいい加減にしていた。そして蚕を何匹も餌をやらなかったり、落としたりなどで殺してしまった。次の日、ぼくは担任の先生に謝った。すると先生は「先生に謝るのかな?謝る相手を間違えていないか?」と言ったその時、僕は気が付いた。謝るべき相手は蚕さん一匹、一匹の命であると。僕は涙が止まらなくなった。そして遊び半分に命をもてあそんだ自分を恥じた。それからというもの、僕は熱心に世話をし、蚕さんを通して人と人との交流を深めた。また、蚕さんを育てたことによって命のはかなさと思いやりを教えてくれたかもしれない。この経験を活かして、人と人との交流を大切にしたいし、自分を磨いていきたいなと思った。神戸市立葺合高等学校(兵庫県)久積茉由子さんおばあちゃんの笑顔私には認知症の祖母がいる。この頃の祖母は私のことを違う人の名前で「○○ちゃん」と呼ぶ。それは、身近な人が認知症になることが初めての私にとってとても辛いことだった。初めてそう呼ばれた時から、私は祖母が本当の祖母でないような気が少ししていた。私の名前を笑顔で呼ぶ姿が私の中での〝おばあちゃん?だったからだ。高校生になって、部活や勉強で忙しくなった私は、祖母に会うことが減ってきていた。もしかしたら忙しいを理由にして、自分で会いに行くのを辞めていたのかもしれない。そんなある日、ぼーっとテレビを見ていると認知症のCMが流れてきた。「私が笑えば、おばあちゃんも笑う。」という言葉が出てきた時、私は自分の事が恥ずかしく思えた。祖母に対して冷たくしてしまった私はとてもバカだったと後悔した。祖母が笑顔で名前を呼んでくれないのなら、私が笑顔で話しかければいいし、名前が分からないのなら何度でも教えてあげればよかったのだ。私が祖母にしてあげられる事がたくさんあった事を、私はこの時気づくことができた。認知症は治らない病気で、これから私の事をもっと忘れてしまうかもしれない。だからこそ私は、祖母にしてあげられる事をたくさんしようと思う。ただ素直に〝おばあちゃんの笑顔?が大好きだった昔の自分に戻るために。神戸朝鮮高級学校(兵庫県)李炳樹さん祖父に教わったこと僕には心の底から尊敬している人が一人いる。それは祖父である。でも祖父は僕が母のお腹の中にいる時に亡くなった。だから実際会った時が無いし、ましてや話したこともない。だから父からの話を聞くだけなのだが、まず僕が今日本にいるルーツを説明すると、祖国が日本の植民地になった時、あまりにも仕事が無いので一族を祖国においてまだ今の僕と変わらない年頃に日本にわたって来たらしい。そして祖国に仕送りをする形で今の兵庫県の城崎の鉄工所に勤め言葉もよく分からなかったが一生懸命働いて、家族を日本に呼んだらしい。もちろん朝鮮育ちなので言葉も通じず頼りになるのは日本に呼んでくれた親戚だけだったという。そして父や親戚が言うには朝鮮人に対する差別がひどく、それで日本人とケンカになったり家族にその苛立ちをぶつけてしまったりもしたらしい。でも父は9人兄弟でありそれを養うのにどれだけ苦労をしたかと思う。僕の親戚達はよく「手とスコップさえあったら家族は養えるんや。」と言ってくれる。そして「たまにわしらを悪う言う奴はおるけどほっとけ!!でもわしらをちゃんと見てくれる人は大切にせぇ。」と言う。これも祖父に教わった事だそうだ。実際僕も16年間生きてきて近所の日本人の友達にいっぱいかばってもらった。祖父も人間関係を大切にする人だった。現に祖父の葬式には沢山の人が集まった。そんな人に僕はなりたい。鳥取県立米子南高等学校(鳥取県)國谷優華さん私のほっぺ私のほっぺは笑うとたこやきみたいにふくらむ。それがアンパンマンみたいだと中学時代からよくアンパンマンと呼ばれていた。アンパンマンは子供達のヒーローだし、人気のアニメキャラクターだ。だが、私はヒーローでもないし人気者銀賞