17歳からのメッセージReport2012

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18 17歳からのメッセージグランプリ学生審査員賞金賞銀賞奨励賞学校特別賞応募参加高校一覧17歳からのメッセージ今、これだけは言いたい!(自由課題)テーマテーマ3山梨県立都留高等学校(山梨県)白鳥優美香さん命のおもさ高校一年生の夏休み、私は課題を終わらせるべく図書館へ行く坂道を登っていた。ちょうど銀行の前を通り過ぎようとしたとき、「とん」と重みのある小さな音が聞こえた。私が足を止めて上を見上げるとステンレス製の屋根の上に一羽の丸々と太った雀がいた。雀が降り立った音だったと気づくと同時に、長い間私が悩んだ「命のおもさ」というものの答えが見つかった気がした。私が小学生のときも、中学生のときも学校の授業で、「命のおもさ」について考えるという授業があった。命にはおもさがあり、他のものがそれを奪うことをしてはいけない。「命のおもさ」は皆平等で他人の命を軽くみてはいけない。などの授業内容で、「命のおもさ」とはなにか、という疑問が私には残った。もし「命のおもさ」=体重なら、すべての人が同じ体重なわけがないので、「命のおもさは皆平等」、にはならない。もし「命のおもさ」=その人の未来、可能性でも100歳の人の未来と0歳の未来が同じであっては困る。0歳の子の命が短いか、100歳の人が人間の枠を超えてしまう。そんなことをぐるぐる考えていた私にとって、雀が降り立った音は、これが「命のおもさ」だ。と模範解答を渡されたように思えた。「命のおもさ」とはそこに存在すること。その存在自体を言っているのだと。長野県松本県ヶ丘高等学校(長野県)宍戸晃太さんボウズのアイツアイツが転校したのは、僕が小学校低学年の頃だった。ボウズ頭が特徴のアイツと僕は何をするにも一緒だった。いつも笑い合っていた。そんなアイツと、この前駅のホームでばったり再会した。でも、目の前にいた金髪にピアスのアイツは、僕の知っているアイツじゃなかった。電車に乗ってからも、僕らの間には見えない壁があった。会話もすぐに途切れてしまう。目の前にいるアイツは遠く離れていた。僕は何度も時計に目をやった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。そのとき窓の外に、あの頃よく二人で遊んだ公園が流れた。僕とアイツは、同時にそれを目で追った。少ししてアイツは、「お前さ、コレ覚えてるか。」と言って額に残る傷跡を指さした。それは僕がつけたものだった。僕があの公園で、ふざけて振り回した傘をアイツの額に思い切りぶつけてしまったのだ。怖くて何度も謝ったのを覚えている。怒られるのが怖かったんじゃない。アイツが僕から離れてしまうのが怖かった。目が合うとアイツは笑った。僕も自然と顔がゆるんだ。見えない壁はもう消えていた。僕は気がついた。壁は自然にできるものではなく、自分がつくるもの。そしてその壁を壊せるのは、それをつくった自分自身だということ。そのとき目の前にいたのは、間違いなくボウズのアイツだった。。静岡県立静岡西高等学校(静岡県)土屋友輝さん怒るってどういうこと?「怒るってことは俺のこと嫌いか。」僕はずっと「怒る=嫌い」だと思っていた。でも、あるときからその考え方は変わった。昔から僕はどこへ行くにも祖父と一緒だった。公園や土手、畑……。今となってはどれも忘れられないものばかりだ。祖父は多くの言葉をいわず、いわば背中で語るような人だった。僕にはかなり優しくしてくれたが、父に対しては、そうでもなかったらしい。むしろ鬼のような人だったようだ。僕は小学校に通い始めてすぐにサッカーを習った。当時はチームの練習だけでは足りず、近所の公園であきるまでボールを蹴り続けていた。ある日、友達と暗くなるまでボールを蹴っていた。気づけばあたりはまっくら。すると公園に祖父が探しにきた。そして友達を祖父と送り、帰宅。すると突然祖父に玄関で「バカ野郎!」と怒鳴られ、げんこつをくらった。こんなに痛い思いをしたのは初めてだった。「普段怒ることなんてないのに。」とすねながらこのとき「怒る」という行為の中に「優しさ」を感じた。祖父だからこそ感じられたんだと思う。怒られたのに妙に清々しく感じた。数年後、祖父が亡くなった。僕は途方に暮れるわけでもなく、ただただ泣いた。人ってこんなに泣けるんだ。優しさと厳しさを兼ね備えた人間になりたいと、漠然とではあるが、そう思った。。静岡県立富岳館高等学校(静岡県)大石ふづきさん「母親」という存在いとこに赤ちゃんが生まれた。いとこもその奥さんも私と3歳しか離れていない。まだ若い。けれど、いとこの奥さんはどんな瞬間も「母親」の顔だ。子どもを生んだ経験も、育てた経験もない私が言うのも少しおかしい気がするが、確かに「母親」の顔だ。子どもの声色や表情で、子どもがどうしたいのかということをほぼ正確に理解している。子どもは、お母さんの姿が見えなくなると不安そうに泣いて、姿を確認すると泣いていたことが嘘のように泣き止み絶対的な安心を見せる。すごく不思議な感覚だ。何故、声色や表情だけで理解できるのか。何故、私と年齢が変わらないのに、「母親」の顔ができるのか。彼女と3歳しか変わらない私は自分のことで精一杯だ。彼女が見せる「母親」の顔と赤ちゃんが見せる母親に対する絶対的な信頼。いずれ分かるかもしれないその2つは、今の私には未知の世界でしかない。考えてみれば、「母親」という存在は不思議だと思う。子どものためなら、自分を犠牲にすることに何のためらいもない。それは、どんな年齢だとしても変わりはないだろう。子どもを生むということで「母親」として何かが起こっているのだろうか。私には分からない。けれど、「母親」とは、子どもに対する無償の愛情を持つものであるとすれば、「母親」という存在は、この世界で最も偉大な存在だと思う。銀賞