17歳からのメッセージReport2015

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3117歳からのメッセージ17歳からのメッセージグランプリ学生審査員賞金賞銀賞学校特別賞応募参加高校一覧奨励賞長野県軽井沢高等学校(長野県)土屋玲美さんチビ。私の身長は百五十四センチです。家ではチビと呼ばれてます。学校でも黒板の上の方に字を書く時とかにイジられます。他にも身長の高い男の子に「小さくて見えなかった。」などと言われます。紹介しきれないほどのエピソードがあります。なぜこんなにイジってくるのでしょう。チビは最高だと私は思います。まず、すばしっこいです。ドッヂボールは最後までのこれます。かくれんぼでは普通サイズの人には隠れられない所に隠れられます。負けた事はありません。あと、女の子はヒールの高さを気にせずに選べます。可愛いデザインの服もたくさんあります。しかし嫌なエピソードもあります。人混みに行くと人混みにまぎれて迷子になってしまう事や電車の吊り革にとどかず不便な事もあります。ひどい時は子供扱いをされます。しかし、学校の図書館で高い所にある本がとどかなくてとれなかった時がありました。その時、好きだった男の子が本をとってくれました。その時に私はチビで良かった。チビって最高と思いました。私はこれからもチビだけど胸をはって生きていきます。チビとイジってきた人、チビで悩んでる人、友達、皆に伝えたい。やっぱりチビって最高だよ。長野県穂高商業高等学校(長野県)中山結貴さん秘密口で食うと書き、喰う。食うの意味を強調した字だ。私はこの字を見て思った事がある。今まで誰にも言えず胸にしまっていた感情をこの場を借りて吐露する。私はおいしい物を食っている人の顔が大好きだ。フェチの域にある。何が良いのか?咀そしゃく嚼し味わう時に自然と花咲く笑み、目を細め玩がん味みし終え満足気な唇、嚥えん下げし余韻を懐かしむ艶を含んだ吐息、マナーさえ守っていれば、食事風景のなんと素晴しいものか。中学の給食はだからとても恥ずかしかった。盗み見てしまった背徳感にそれでも見てしまう罪悪感でビクビクしていた。あまり共感されないフェチだからだろう。悲しいものだ。足よりも項うなじよりも何倍もの良さを見せてくれる、それが食事だ。最近私の琴線にふれるようなPVがあった。4分半の曲にあわせ、肉を喰い続ける女性の動画である。野性的に小さな口で引きちぎりながら喰う姿は、私が今まで見てきた中で最も魅力的で美しかった。画面ごしなのが凄くもどかしいとも感じた。そして気づいた事がある。中学の頃から恋バナの「好きなタイプは?」という質問が凄く嫌だった。なにしろ1人だけ趣が乖かい離りしているのだ。生々しい。なので1人で赤くなっているか、曖昧に答えてきたが、もうそれも止めだ。私は17歳らしく静せい謐ひつで夢や希望に溢れた志を身に被り(もう今さら感は出つつあるが)爽やかにこの文を締め括ろうかと思う。「私のタイプはおいしそうに喰べる人です。」岐阜県立山県高等学校(岐阜県)鈴木楓夏さん私にとっての苦しみ「苦しい。」とばかり思う時があった。「どうして私が。」という前に、その意味の分からなさに私は呆然とした。私にとっての苦しみは成長の兆しであり、努力の証拠であった。しかし、この苦しみは違った。ただ苦しいだけで、私に良い効果をもたらすようなものではまるでなかったのだ。だとすれば、この苦しみに堪える私とはなんなのか。この裏切りは私を惨めにさせた。それから、私はある本を見つける。それはヴィクトール・E・フランクル作『夜と霧』という本だ。その本には、悩み続けた答えがあまりにあっさり書かれていた。「生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。」信じてきたものを嘘だと言われたような失礼な響きの中、その言葉は思いの外すんなりと私に染み込んでいった。私はこれまで答えを問い続けてきた。全てに意味はあり、ただ私は気づいていないのだと。しかし、その苦しみ自体が「問い」だったのだ。人生という漠然としたものに問いかけられていたのだ。そして私は答えていた。努力や成功、怠惰や失敗という形で。生きることの意味という壮大すぎる問題を解くためには、たくさんの苦しみに堪えていかなければならないのだろう。そしてその苦しみの分、私の人生に重みと色彩を増していくのなら、私にとって苦しみは意味のあるものだと感じられた。愛知県立愛知商業高等学校(愛知県)中尾ひよりさん意外と見ているのですよ。「そもそも、大人が格好悪いから、子供がなめるんじゃないのかな」とはエッセイ『3652』に載っている、伊坂幸太郎さんの言葉だ。言い訳がましい政治家や、幼稚な犯罪供述に向けての言葉だ。別に私は大人を貶おとしめるつもりは毛頭無い。けれど伊坂さんの言う「格好悪い大人」は、色々な媒体で様々な所に見るなと考えていたら、ふと思い出した。数日前、通学のために私は電車に乗っていた。したい事も無かったから、携帯片手に俯く高校生と、読書をする中学生を眺めていた。すると中年男性が乗ってきて、新聞を広げ始めた。新聞紙は本や携帯より場所を取るものだな、とぼんやり思っていると、駅に着いた。男性は降りるようである。扉が開いた瞬間、彼は持っていた新聞を手早く折り畳み、手荷物置きの上に放った。そのまま背中が遠ざかる。洗練された、熟練の手並み。いっそ爽やかさすら感じるフォーム。私は思わず吹き出してしまった。格好良くない大人だなあ、と思ってしまった。私の母は「何事も上達のためには観察。」と言う。それに従い、私も自分の行動を改めようと観察するのだけれど、存外格好悪い大人は多いと気付かされた。理想を押しつけているだけかもしれないが、大人には格好良くいてほしいというのが正直なところ。私たちは大人を模範として成長していくのだから。ちなみに今朝も新聞の彼に会った。手荷物置きを見る。またも、新聞がのっている。