学長・野風草だより

No.267

No.267 2012年9月14日(金)

日立大樟会で語る黒正イズム

 日立グループに勤めている卒業生たちの集まりである日立大樟会が開かれ、勝田理事長とともに出席させていただきました。32名の会員のうち、15名が参加されていました。昨年初めて出席した時、7年前に卒業した参加者中一番若い方が、私の日本経済史の講義で100点満点を取ったと言われ、うそでしょう。私の講義は厳しくて、満点は一人あるかないかですよと言いました。その方が今年はなんと学生時代の成績表を持ってこられ、私に見せました。確かに100点満点でした。ウワッーーー、すごい優秀だったんですね!!!それに学生時代の成績表を今も持っておられるのにも、ビックリでした。
 各人から近況報告がされましたが、何よりこの8年間大経大から一人も日立グループに入っていないことが、話題の中心となりました。やはり東の企業ということで縁遠いのと、受験しても採用まで至らないのでしょうか。
 最後に田中富三元日立金属副社長・元同窓会長が、学生時代に講話などで聞いた黒正巌博士の思い出を語られました。女子経専時代の方にも黒正博士の思い出を語っていただきましたが(野風草だよりNo.247)、こうした貴重な証言、思い出を記録に残しておくことは重要です。100周年の時に大学史を編纂する時に、気が付いたのでは遅すぎるのです。田中さんにお願いして、思い出やご存知のエピソードなどを書いていただきました。

○黒正巖先生の思い出

 母校大経大は創立80周年を迎えた。「道理貫天地」黒正巖先生の建学の理念をいま、大経大で最も熱く継承しておられるのは徳永学長である。数年前、徳永先生の講義を傍聴する機会がありその思いを深くした。『黒正巖著作集』全7巻、『黒正巖と日本経済学』等、黒正先生に関する本の上梓は正に徳永先生の足跡です。黒正先生の教えに触れた者の一人としてとても嬉しいことです。
 私は1952年の卒業です。入学は1947年大阪経済専門学校。当時黒正先生は第六高等学校々長兼京大教授として大阪経専を離れておられたが偶に帰ってこられては我々学生を集めて講話をされた。
1949年大学昇格の際、学長として復帰され、これから先生の謦咳に接する機会が多くなると思っていた矢先の9月に急逝された。行年54才。先生の講話の中で鮮明に覚えていることがある。「有用の学と無用の学」、人とのお付合いの仕方、人との絆を深めるのに筆まめになれ、酒席でのマナー等々、この無用の学は諸君が社会に出た時に役立つ。50年に及ぶ私の会社生活にこの先生の訓は活きた。

 私の会社時代(日立製作所、日立金属)の上司が京大時代、黒正先生の門下生であった。卒業が迫った頃「君は企業に行くより学者になれ、大学に残って研究しろ、そして僕が校長している昭和高商で教鞭を執れ」と言われたそうです。1938年頃の話です。
 その上司がやがて社長、会長になり、晩年相談役の時、私は宮本又次阪大教授の「黒正巖先生の学問と人物」という岡山大学での講演録を相談役に進呈した。「正にこの通りだ。黒正先生の人柄が良く出ている。黒正先生は学問だけでなく人間として魅力があった」としみじみ語られた。先生の思い出話に花が咲き私が調子に乗って、京大教授時代に祇園から大学へ通っておられたそうですね、と言った途端、君、そんな話を面白おかしくするもんじゃないよ、と叱られ、自分自身に恥じ入った。
 私の伯父が黒正先生の六高・京大の12年先輩になる。六高会などを通して交流があったらしい。あるとき伯父から黒正君は大した人物だ、と聞かされた。
 我が家の近所のご主人と戦時中の話になり、その方はその頃、旧制高校の学生で学徒勤労動員令で授業中止、軍需工場に働きに行く事になった。校長は全学生を講堂に集めて「学生の本分は勉学にあり。諸君を勤労に出す事に私は反対である。働きに出ても本を読む事だけは怠るな」当時官憲が聞いたら捕えられかねない様なことを堂々と訓示した校長が忘れられない。とそのご主人。私は六高の黒正さんじゃないですか?と言うと、えっ どうしてわかりましたか、とても驚いておられた。直感である。
 信越化学の金川社長は六高出身である。間近に黒正先生に記念の書を頂こうと伺ったら色紙に達筆で「怠学三年、肌漸く寒きを覚ゆ」、自分がやっと卒業できる成績であったのを黒正校長がお見通しであった。と驚嘆しておられる。

 私なりの黒正巖観は、清濁併せ呑む、硬軟両様、イデオロギーにとらわれない真のリベラリストでないかと思う。菅野和太郎先生との親交、一方官憲に追われていた久野収先生を研究所の留守番ということで学内に匿われた等の話はこれを物語る。
 1949年学制改革による大阪経専の大学昇格運動で、最大のウィークポイントであった施設の劣悪を凌駕して昇格がいち早く決定したのは、正に黒正学長の復帰であったと思う。
 上新庄駅から学校への道を、ステッキをついて歩いておられたあの温顔の黒正先生の姿を、遠い日の残像の中で今も思い出す。

2012年秋  田中富三