学長・野風草だより

No.328

No.328 2013年1月27日(日)

卒業生で切り絵作家の「成田一徹さんを偲ぶ会」

 成田一徹さんは、昨年の10月14日に脳出血のために、享年63歳で逝去されました。私は、「追悼・成田一徹」と題して、思い出などを書きました(野風草だよりNo.284No.294)。「成田一徹さんを偲ぶ会」が、生前に親交が深かった新聞・雑誌の編集者やバーの関係者などのお世話で、神戸で開かれました。奥様、娘さんなど遺族の方もご出席され、全体で270人もの方々で成田さんを偲びました。思い出の映像も上映され、友人たちから思い出の言葉が続きました。成田さんのお人柄が、こうしたご縁を結び合わせたのだと思います。お世話いただいた発起人、世話人の皆さまに心から感謝いたします。以下は、私の挨拶です。小中高大と同級生だった親友の渡邊幸二さんからもお別れの言葉をいただきました。彼の素晴らしい作品とともに、お読みいただければ幸甚です。一番下の切り絵は、渡邊さんがお持ちの貴重な、「成田徹」が最初に世に問うた「グッド・バー通信」第1号です。

 ご紹介いただきました大阪経済大学の学長の德永です。本日お集まりいただいた皆さまは、長年にわたり成田さんとバーでお酒で、そして切り絵でつながっておられ、もっともっと挨拶にふさわしい方がいらっしゃるかと思いますが、成田さんが大経大の卒業生というご縁で、ご挨拶させていただきます。所用のため間もなく退席しないといけませんので、最初にご挨拶させていただくことの失礼をお許しください。
 成田さんは1949年に神戸でお生まれになり、大阪経済大学経済学部に1969年に入学され、1973年に卒業されました。そして同年大学院修士課程に入学され、西田幾多郎の哲学を発展させた日本が誇る哲学者である鈴木亨元学長のところで経済哲学を学ばれました。修士課程は本来2年ですが、倍の4年行かれました。きっと進路、これからの人生に悩まれていたんでしょうね。鈴木先生のもとで学ばれた院生たちはとても仲が良く、今も年に1回泊りがけで集まり、鈴木先生も顔を出しておられ、成田さんも頻繁に出席されていたとのことでした。現在93歳の鈴木先生とは昨日電話でお話ししましたが、当時の成田さんはおとなしく目立たない院生やったなと思い出されていました。皆さまによろしくお伝えくださいとのことでした。

 卒業後、大経大とのご縁は切れておりましたが、私が日本経済史研究所の所長をしていた時、成田さんの切り絵が朝日新聞に連載されており、本学の卒業生であることが分かりましたので、2003年の研究所の開所70周年記念に成田さんの個展を卒業した母校で出来ないかと思い立ったのが復縁のきっかけです。2002年11月に神戸の丸善で個展が開かれていたのに私が出かけてお会いし、その後卒業して30年ぶりに母校においでになり、キャンパスの変貌ぶりにびっくりされていました。その際に大学にとって貴重な財産になるものをと思い、桜咲くもとでの初代学長の黒正巌博士の胸像を切り絵にしていただきました。
 そして、2003年5月に学内のギャラリーで朝日新聞に連載された「どこへ一徹 切り絵旅」の全46点の原画を展示させていただきました。成田さんには本当に喜んでいただきましたし、私としても大経大卒業の著名なアーティストを紹介できたことはうれしい限りでした。ここで、2003年ですから今からちょうど10年前ですが、その時のパンフに書かれた成田さんの「作家からのひとこと」の言葉を紹介せていただきます。
 「年の始め、個展の打合せで久々に阪急上新庄で下車、我が学び舎への道を歩いた。学部・大学院の8年間、通い続けた懐かしい道程である。あの頃、将来を思いあぐねてはいたが、しかし絵描きの道は夢想だにしなかった。まして、我が母校で個展まで開催できるとは―――。歩きながら、面持ちは感無量だったに違いない。切り絵を生業にして15年になる。黒い紙をナイフのカッティングだけで絵にしていくという、いわば極めて薄っぺらな技法で、今までよく生きてこれたものだと思う。わずかな才能と、それ以上に幸運と人の縁に恵まれたことをつくづくと感じている。今回もまた、母校との有難い縁である。」と述べられています。本当に成田さんのシャイで謙虚で、誰からも好かれるお人柄が偲ばれるお言葉です。

 その後、しばらくお会いしませんでしたが、2010年頃より京都や上新庄、梅田で一緒に飲むようになりました。はしご酒でしたね。私も酒は強いつもりですが、成田さんは、正直飲みすぎやったね。今思えば、神戸と東京の往復でしんどかったんやないやろか。京都の酒司・飛鳥やウォッカ・ナカニシなどで壁に飾ってある「カウンターの中から」の切り絵を見ながら飲んで語りあうのは、楽しい限りでした。私がお世話になっている河原町のバーの閉店と上新庄の居酒屋の50周年祝いに切り絵を2点作っていただいたのも、今となればありがたい思い出です。詳しいことは、私の学長ブログ「野風草だより」に「追悼・成田一徹」1、2として書いています。
 ご縁があって私は学長になり、2012年の創立80周年記念に、10年たって成田さんのお名前はさらにビッグになられていましたので、個展を11月に母校でもっと大規模にと思っていたところでした。2012年10月1日の創立80周年記念パーティーにお越しいただき、「おめでとう、忙しそうやね。個展、がんばるわ。今から仕事で東京行くわ」、「うん、ありがとう」と短い言葉を交わしたのが、最後となりました。そのあと、東京駅で倒れられ、帰らぬ人となりました。何で、あの時もっと話しとかんかったんやろう。せめて、「お元気で」と手を握っといたら良かったのに。ごめんなさい。成田さんが卒業され愛された大阪経済大学を代表して、心からご冥福をお祈りいたします。 ケンパーイ!

○同級生の渡邊 幸二さんの思い出の言葉

 小、中、高、大学と彼とはずっと一緒でした。彼とは家が近くだった事もあり、高校時代、大学時代は頻繁に出入りをしていました。高校時代の彼は影が薄く、全く存在感の無い子で、誰の記憶にも残っていないと思います。逆に私は、(自分の口から言うのも何ですが)今風に言えば、トップアイドルの様な存在で、別にイケメンでも無く、特に頭脳明晰でも無いにも関わらず、男女を通じて抜群の人気者だったのです。トップアイドルと全く存在感の無い彼とが何故そんなに親しかったのかは、周りの人から見れば、奇妙な関係に映ったかもしれません。影が薄かった彼なのですが、私と居る時には、全く別の一面を見せたのです。話す事が面白かったのです。ある種シニカルに物事を見ているのですが、その面白さはフツーの人には理解が出来なかったかもしれません。振り返れば、私も彼が居た事で想い出深い学生時代を送れたと思います。これはお互い様ですね。

 そんな二人は奇妙な友情で繋がっていました。家が割と近かった事と同じ塾に通っていた事です。彼は自分は小学校の頃、こんなに暗くはなかったと私に言うのです。小学校の謝恩会の未来の自分というのを覚えているか? あれは自分が演出した物だと言うのです。私は、その劇を覚えていました。しかし、私は、彼に言うのです。どうして暗い事がいけないのか? それでいいじゃないか、暗い人は暗いまま生きればいいというのが私の持論でした。彼は、自分には友達が居ないと言うのです。 私は「(君にも友達は)居る」と言いました。彼は、「否、居ない。」とポツリと言うのです。私は「(君の)目の前に居る」言いました。彼は、ええっという顔をしていましたが、ちょっと嬉しかったに違いありません。この話は二人だけで、彼の家で交わされた会話ですが、後に、彼はこの事を母親に話しています。

 阪神大震災の時、東京から神戸に駆け付けていた彼と、神戸駅の地下で(まるで終戦直後の様にリュックを背負った人でごった返していた)で遭遇します。大勢の人の中で、「ワタナベ!」と叫ぶ声が聞こえてきました。見ると成田君だったのです。互いに無事で良かったと立ち話をしました。おそらく、それが最後の遭遇かもしれません。その後も電話やメールでは話をしてはいますが。途切れる事もなく、50年の長きに渡って付き合いがあるのは、彼のみです。よる年波か、子供の頃を思い出して。色々なシーンがよみがえり、涙がとめどなく出てくることがあります。