学長・野風草だより

No.461~470

No.461 2014年5月12日(月)

東日本大震災から3年の岩手県大槌町を訪問

 私たち関西農業史研究会は、1977年から月1回の研究例会を続けてきて、この4月で38年間、329回となりました。1981年からは5月に農書の現地を訪ねる旅を毎年続け、34年間で全国ほとんどの地域を回りました(野風草だよりNo.216363)。研究会の様子は会のホームページをご覧ください(www.ka-ahcs.org)。修士課程の23歳からお世話してきた私は、当然のことながらおっさんを通り越して、おじいさんになりつつあります。毎回集まる10数名も、高齢化が顕著です。でもこの会があるおかげで今もなお、農業史研究を続けてられています。
 今回の農書を訪ねる旅はこれまでと一味違って、末村祐子大阪経済大学客員教授のお世話で、東日本大震災から3年たった岩手県大槌町を訪ねて、復興の状況を見せていただき、現地の方々と交流しました。3.11の直後、宮城県南三陸町での被災ボランテイィア活動(野風草だよりNo.7879)以来のことです。関西はもとより、福岡、島根、関東からと13名が花巻に集まり、バスで大槌町に向かいました。



  大槌町では、「一般社団法人おらが大槌夢広場」の皆さんにお世話になりました。高三の女子高生の案内で、最初に旧町役場を訪問しました。町長さんはじめ40名の職員さんが亡くなり、大槌町全体では1234名が亡くなりました。慰霊の祭壇前で黙祷をしました。当時の様子、その後の復興の状況を若い18歳の目線で語ってくれました。防潮堤の高さを現在の6.4mから今回の津波を防げる14.5mにするか、景観を優先するか、いのちを守るかで議論があるのを聞いて、一直線に進まない現況を教えてくれました。
 震災直後は何もしゃべれなかったが、去年の夏から語り始めたそうです。いつも誰かが見ていてくれる。ご先祖様が、亡くなった知り合いや友人が。生きているんじゃなくて生かされているんだというのを、実感するようになった。高校を卒業したら釜石で働きながら、土日は地元でガイドが出来たらいいなと、最後に話してくれました。

 ホタテ貝養殖組合長の斎藤さんからは、現在の漁業の話を聞かせていただきました。復興資金を活用しながら、消費者との直接販売など工夫を重ねたりして、困難ななかでも懸命に何とか今日まで続けてきた。私たちの参加者には漁業の専門家、地域振興に携わっている研究者もおり、取れだちのミュール貝のお汁をいただきながら、活発な意見交換をしました。夜は宿舎で美味しい魚介類をご馳走になりながら、おらが大槌夢広場の皆さんと交流をしました。「共に夢を見つけ育て叶える。そのために人が人を育て、人がまちをつくる」事業を地道に続けてこられています。






 朝には浪板海岸を散歩して、浜辺のきれいな石を10個ほど拾って持って帰り、自宅の庭に置いています。それを見るたびに大槌のことが思い出されます。右の写真は、昔々テレビで見た人形劇の「ひょっこりひょうたん島」のモデルとなった蓬莱島です(他にもあるそうですが)。こんなところにあったんですね。最初は1964~1969年に放映されたそうなので、小学校5,6年で見てたんだな。ドンガバチョとか博士とか、懐かしく思い出されました。原作者の一人である井上ひさしは、『吉里吉里人』を書いていますが、大槌町には「吉里吉里」集落があります。

 翌日は、その吉里吉里へ行き、NPO法人吉里吉里国の芳賀正彦理事長のお世話で、吉里吉里国の主要商品である「復活の薪」作りをしました。震災後は、木造家屋の廃材や津波で枯れてしまった樹木を集めて薪にし、1袋10キロを500円で売ってきた。20011年12月からはNPO法人を立ち上げ、地域の山林の間伐をしながら薪を作りながら、山林を守り林業振興を目指しているとのことでした。震災で家を失った人々、身寄りを失った人々を受け入れてサポートし、自立を支援しています。大学を卒業したての青年が将来林業をしていきたいと、黙々と作業している姿が印象的でした。
 


 私も小さい頃にした薪割を思い出しながら、へっぴり腰でチャレンジしました。まさかりを振り下ろして、バキッと割れていくのは気持ちがいいものです。参加者たちは思い思いに薪割を楽しみました。私は翌々日に筋肉痛が来るのがわかっていましたので、早めにギブアップしました。
 











 芳賀さんからこの間の活動のお話を聞きました。津波で被災して奥さんに「僕の実家の九州に帰っべし?」と言うと、奥さんが「ここでもう一度住みたい!」と言われ、腹を括った。震災直後の夕方から自分たちで対策会議を集落内で作り、避難所を自主運営してきた。ヘリポートも作って、アメリカ軍など外からの支援も受けれるようにした。3年たってやっと山林の現状がわかり始め、山の恵みの大切さが身に沁みるようになってきた。大人たちはもう山林には振り向かないが、将来を担う子供たちに山の恵みの大切さを教えていきたい。
 38年前に東京からここへ来た時は、地元の人から「旅の人」と呼ばれ、結婚すると「保育園の先生の旦那さん」となり、20年前ほどから奥さんの姓で地元で一番多い「芳賀さん」と言われ、震災後からは「正彦さん」と親しく呼んでもらえるようになった。吉里吉里で38年がたち、「名もなき吉里吉里人として、フツーの人として、これからもやっていこうと思う」と、感慨深げに話されました。
 大槌町からの帰り、柳田国男の『遠野物語』の遠野を訪ねて、花巻で解散しました。私は一泊して、翌日詩人・作家であるとともに農学者であった宮沢賢治の故郷である花巻を散策しました。実りの多い旅でした。3.11以降の新しい学問、農業史研究の方向性を気づかされました。お世話いただいた末村さんはじめ、おらが大槌夢広場、吉里吉里国、地元の方々に深く感謝申し上げます。また、お訪ねしてみたいと思いますので、よろしくお願い致します。

○復興庁岩手復興局復興推進官 末村祐子さんのコメント
 今回は遠路はるばる、どこから赴いても最も時間がかかる大槌まで足をお運び頂き、本当にありがとうございました。沿岸の復興に欠かせない過疎のこと、農林水産のこと、2日間でも先生方とご一緒できたおかげで、色々と勉強になりました。津波災害からの復興を考える時に、農・水産・林産業への視座が不可欠であることを痛感する日々。そんな中、先生方においで頂き、長年のご研究・ご経験からご教示頂けたことは何よりありがたい機会となりました。今回会って頂けた方々も皆、よい出会いに感謝されていたとのこと。復興政策・行政・制度の改善は当然のことながら、今回お会い頂いた齋藤さん、芳賀さんのような現場をつくっておられる方々お一人お一人を応援できるよう、手を抜かずにやれればと存じます。
 東日本復興の現場に赴いて3年が過ぎました。津波被害を受けた地域は私たちの先祖が長い時間をかけて海と山との共存の知恵を積み重ねてきた地域。「農書を読む会」で長年日本の「農」に取り組まれてきた先生方にご教示をいただき、また、様々に考えを交わすことができた2日間は、これからの復興を考えるにあたり、私にも学び多い時間となりました。今回ご縁を持っていただいた皆様の等身大の復興、これからも応援宜しくお願い致します。

○おらが大槌夢広場 神谷未生さんのコメント
 今回の皆様の訪問で、私も沢山の刺激を頂きました。どうしても日々の業務に追われる中、何気ない会話や質問で、自分の事や仕事を振り返る事ができた気がします。また、あのように「外部」の方と「町民」を引き合わせる事で、齋藤さんや芳賀さんの違った一面を見る事ができました。普段から顔をあわせているからこそ、あえて聞かない事・話さない事もあると思います。それが、外からの方との交流で、知らなかった一面が見えるのは、非常に面白かったです。
 震災後、多すぎるほどの助成金やら支援金がここ大槌町にも舞い降りました。お上としては、「金をやるから、これでどうにかしろ」と言ってるのだと思いますが・・・・けれど、震災前に育てていなかった芽は、津波がきたからって突然育つわけではありません。助成金/支援金などを、本当に自分達のため、コミュニティーのため、産業再生のために役立てるには、それなりの経験と勇気と仲間が必要です。でも、震災前にそのような「見えない芽」を育てていなかった大槌(そして、被災地の多く)/育てづらかった大槌/育てる大切さに気づいていた人が少なかった大槌では、そのような機会をどう使っていいのかわからない人の方が多いと思います。だからこそ、私たちは「人そだて」をする為に、この団体を立ち上げました。「町づくりのための、人づくり」です。これからも、あせらずじっくりと行っていきます。

○吉里吉里国 芳賀正彦さんのコメント
 大津波の最後の波が退いたとき、私はすべての物を失ったことを知りました。
 避難所の片隅には焚き火の炎が終日燃えつづけ、眠れぬ真夜中に何度も焚き火の前に佇んでいました。それ以外になす術はございませんでした。その炎が、私にある覚悟を授けてくれました。
 「すべての物をなくした今、他に失う物があるのか」、「失う物がなければ、怖いものもねぇ‐べ」と、炎が教えてくれました。「津波に浚われ、苦しみながら死んでいった犠牲者の悲しみを、自分で背負って生きていけ」と諭してくれました。
 私たちは、もう被災者ではありません。助けることのできる人間だと思っています。助けられた命を、何かのために活かしながら生きつづけます。大槌の街を、そこで暮していこうと決めた名も無き私たちを、遠い空の下から見守りつづけてくださいませ。