学長・野風草だより

No.525

No.525 2014年11月18日(火)

準硬式野球部の牧田安夫総監督を偲ぶ会、そして部員の善行表彰

 11月16日、E館7階で、準硬式野球部の牧田安夫総監督を偲ぶ会が催されました。牧田さんは、長男の和也さんによれば、本年に至るまで大病を患ったことはなかったそうですが、9月2日の夕刻、自宅近くのスーパーに1人で買い物に行った帰りに転倒し、頭部を損傷したそうです。通りがかりの方が倒れているのを発見し、救急車の手配をし、その後搬送された病院での懸命の手当の甲斐なく、9月17日午後2時20分多臓器不全にて89歳の生涯を終えられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 私は、何度か応援でご一緒させていただきました。何年か前の京田辺のグランドでの代表出場権をかけての試合、一昨年の愛知県での全国大会、応援しながら、あのプレーはすばらしい、勝っても今日の試合は良くなかった・・・学生たちを思いやりながらの辛口批評をお聞きしていました。昨年の東京での全国大会は、猛暑のため応援は止められましたが、応援の我々のために雨天共用の日傘を届けていただきました。ただ勝てばいいのではなく、学生スポーツの歩むべき道を示していただきました。牧田イズムが準硬式野球部だけでなく、大経大の体育会クラブに生き続けることを望みます。
 18日には、準硬式野球部の5名の部員が、人命救助の善行をされたので学長室で表彰しました。8月のことですが、連絡があり知った次第です。牧田イズムが生きてるなと感じ入りました。以下は、16日に偲ぶ会に長男の牧田和也様よりいただいたお手紙の一部と、善行表彰の部員のコメントです。

○故牧田安夫総監督のご長男和也様のお手紙より
 ご存じの方も少なくないかと存じますが、父のことを少しお話させて頂きます。父は、大正14年3月に兵庫県明石市で生まれ、太平洋戦争の折には、零戦のパイロットとして特攻隊の部隊に所属しておりました。結果として特攻隊の任務は遂行せずに終戦を迎え、数年の抑留生活を経て帰国、大阪経済大学に入学致しました。入学後自ら準硬式野球部を作り、学業とともに野球部の活動に没頭していたと聞いております。大学卒業後は東京都庁に入庁し、公務員としての任務を遂行して参りましたが、戦争で命を落とした全ての戦友の墓参りをしたいというたって希望で、定年より3年早い昭和57年に退職致しました。その後、縁あって母校の準硬式野球部のお世話をすることとなり、以後30年近くに亘り、春の白浜合宿、春秋のリーグ戦、夏の全国大会と、そのポイント・ポイントで関西に向かう姿を私もよく覚えております。実は私も大学時代に、父が監督として出場した全国大会を見に行かせて頂いたことがございます。
 父は、大学の部活動は、何が何でも勝てばそれで良いというものではなく、部活動を通して将来に役立つことを色々と学んで欲しいと常々申しておりました。そして準硬式野球部に所属された皆様が、卒業後それぞれの分野で立派にご活躍されていることを何より喜んでおりました。
 これまで大阪経済大学の関係者の皆様から、父に頂いたご厚情に改めて感謝申し上げるとともに、今後も皆様のご記憶の中に「牧田安夫」というOBがいたことを折に触れて思い出して頂ければ、幸いでございます。

○準硬式野球部3年生の浅野慎君のコメント
(他に魚谷匠君、日野駿一君、脇坂俊希君、山原駿君)
 8月25日、寝屋川球場での練習が終わり、最寄り駅の東寝屋川駅のホームを5人で歩いていたときのことでした。はじめは女性二人が引っ張りあいをしていて最初は喧嘩していると思い、あまり気に留めていませんでした。しかしよくみると、若い女性が駅の線路に向かって飛び降りようとしていてそれを母親とみられる女性がとめている状況でした。若い女性はホームの一番先に手をかけ床に這いつくばってでも飛び降りようとしていて、それを母親とみられる女性は必死に止めながら「助けてください!」叫びました。
 私はこのような状況は初めてだったので、一瞬どうしたらよいのかわからなくなりました。しかしここで助けないと、あの若い女性は電車にひかれてしまうかも知れないと思い、若い女性の腕を掴みホームの方へ戻しました。その時若い女性が私の腕を握り、振り払おうとしていました。女性の腕はとても白く細かったですが、私の腕に痛みを感じるほど力強かったことを覚えています。ホームに戻してからも飛び降りようとしていましたが、そこは何人かで体を押さえました。その後駅員の方が来られて上の方へ連れていき、私達はその後電車で帰りました。無我夢中であっという間の出来事でした。
 これからこのような場面に遭遇する可能性は極めて低いと思います。しかしもし遭遇したならば、今回同様少しでも助けになることが出来れば良いと思っています。