学長・野風草だより

No.690

No.690 2016年5月8日(日)

新たな書の美 加藤光峰・井上有一

 加藤光峰氏が主宰する「亀甲会」は、中国古代の甲骨文や金文、金石文などと対峙しながら、その文字を作っていった古代人の魂を現代に甦らせようとする書の集団です。展覧会の当日は、加藤先生と3時間近くも親しくお話させていただき、恐縮至極でした。右の2人の写真の後ろの書は、加藤先生のもので「荘子」より、「人之生/氣之聚也/通天下一氣耳」です。

 亀甲会の書は、「アート」なんだというのが、率直な感想です。金文・甲骨文による「象形文字」をモチーフにして、筆と墨で紙に描いたアートということでしょうか。美術や音楽などと同じで、最終的には、作者の人間性の自己表現ということなのでしょう。「象形文字」には、それでも形と意味があります。それらを依り代としながら、それらから一旦離れてしまったうえで、実際に書く時に知らず知らず「自ずと」回帰しているというが理想的なのかもしれません。
 加藤先生が言われていた、「象形文字」が活きていて、向こうから何かを語りかけてくるというお話。そしてその語りかけのすべてを表現するのではなく、納得できる何十%かを表現するということでした。加藤先生は、象形文字→作者→新たな象形文字の創造、という構造を作り上げているでしょう。

 「臨書」が大切というのが、興味深かったです。いきなりのイメージによる創作は出来ないということなのでしょう。基礎が大事というのは、学問研究も全く同じですね。ですから、いい先生、厳しい先生に巡り会わなければなりません。そして、いずれ「独創」が生まれてくるのでしょう。その悪戦苦闘のプロセスに「人間性」が染み込んでくるのでしょう。基礎・盲従的な修行と努力→悪戦苦闘・人間性の探求→独創・一時的な開眼→→再び基礎・・・・の繰り返しなのでしょう。それはゴールなき、永遠の円環運動なのでしょう。という風に考えますと、学問も芸術も同じ人間的活動だと思えてきました。
 私は農業研究においてフィールドワークを大切にして、「まわし(循環)・ならし(平等)・合わせ(和合)」の日本農法の根本原理にたどり着きました。大学教育においては、一人ひとりの学生と向き合いながら、「そっと手を添え、じっと待つ」ことこそが、これからの日本の教育哲学だと考えています。
 今回、また新しい世界に触れえたことは、私にとって大きな喜びです。六十年を超えて一筋に研鑽を続けてこられた加藤先生にお会いできたことは、人生の師に出会った感じです。心より感謝申し上げます。加藤先生、亀甲会のますますのご活躍をお祈りいたします。

 3月の末には、金沢の21世紀美術館へ「生誕100年記念 井上有一展」を見に行ってきました。書を見るのは絵画を見るのと同じくらい好きですが、なかなかいい機会がなく、今回はこの展覧会を見るためだけに、「サンダーバード」に乗りました。
 私には彼を評価する力がないので、図録に書かれた秋元雄史館長の言葉を引用します。「書か、絵画か、あるいはナショナルか、インターナショナルか、あるいはローカルか、グローバルか、そういう二者択一ではない、それを超えて有一の仕事を見ていくことが重要なのである。・・・両方にまたがる視点から有一を見ることによってやっと有一は理解できる。そして今そういう視点から戦後日本の美術を見直すことが必要である。」(図録20頁)21世紀が時代の転換期というのは、このような意味でしょう。大学教育に求められているのも同様です。右の書は「無我」(1956)です。

 今度は、井上有一自身の言葉を紹介します。彼の著書を入手していませんので、『別冊太陽 井上有一』(2016)からの引用です。右の書は「母」(1961)です。「私は『母』という字を書いた。なぜ『はは』やMotherとは書かないで『母』と書いたのであろうか。それは母という文字が単に『はは』という意味を表わす記号であるだけでなく、ちょうど老いた母の顔のように、この文字の中に数千年のしわを見るからである」(1962 34頁)。
 「誠に書こそ次の世界を築く唯一の最高の造形芸術であると信ずるが故に、この道にはげむものである」(1957 68頁)。
 「長生きすりゃ、そのうちいい字が書けるだろうというようなうまい具合にいくとは誰も保証しない。いつブッこわれるかわからないポンコツに、ガソリンをつぎ足しつぎ足し、ガタピシ走っているようなぼくは、正直いって一日一日がいうなら絶筆を書いているような気がしなくもない。考えようによってはこれはありがたいことなのかも知れない」(1985 96頁)
 正直、半日ほど美術館に座り井上有一の書をみながら、戸惑っている自分があるだけでした。

「書程、生活の中に生かされ得る極めて簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい。
 書は、万人のものである。
 書を、解放せよ。
 書家よ、その看板を下せ。誰人もみな書家であらねばならぬ。
 書家よ、裸になれ。思い切って一切を棄てて、一個の人間として出直せ。私は、何よりも先ず、私自身に向かって、こう叫ぶのである。
 一度、一切の技術を棄てて、素朴な人間になろうではないか。原始人の様な態度で、原始芸術の様な、素朴純真なものを生み出そうではないか。土器の様な、埴輪の様な、慇墟文字の様な、木簡の様な……。」
(『書の解放とは』(1996) P.28 から引用)