学長・野風草だより

No.691~700

No.691 2016年5月15日(日)

北陸農書研究の開拓者の卆寿を祝う

 私たち関西農業史研究会では、1981年から毎年5月に全国の農書を訪ね歩く修学旅行を行っています(野風草だよりNo.216363461590)。もう35年がたちましたが、毎回10~20人が参加しています。今回は、北陸農書の研究を開拓されてきた清水隆久先生の卆寿(1926年生まれ 90歳!)をお祝いして、先生のご講演と、北陸農書・村松標左衛門関係史料の展示を見ることにしました。
 5月14日に私学共済「兼六荘」に集まり、先生のご講演をお聞きした後、参会者でお祝い会を行いました。先生を長年支えて来られた奥様も米寿(88歳!)で、お二人に長寿の夫婦箸をお贈りしました。その様子は、翌日の毎日新聞石川版と北国新聞に写真入りで大きく紹介されました。
 翌日は、県立図書館で、北陸農書の史料、村松標左衛門関係の史料などを先生に解説していただきながら閲覧しました。圧巻は、村松標左衛門が残した植物標本(「腊葉帖」22冊)でした。200年近くたっても色鮮やかに残っており、参加した農学者たちは熱心に見入りました。

 清水隆久先生の農書関係の著作は次の通りです。30代から60年間、倦まず弛まず農書研究を続けて来られたことに、心から敬意を表します。しかも20歳から60歳までは、高校の先生、校長などを勤めながらの農書研究でした。私は『日本農書全集』の関係で先生が50歳頃からお付き合いさせていただいていますが、農書研究に賭ける先生の情熱に心打たれ、その厳しさに我が身を恥じ入るばかりでした。こうした碩学にお会いできたことは、私の研究人生にとって幸せなことだと感謝しています。

・『近世北陸農業技術史』 1957 石川県片山津町教育委員会
・『村松家訓』 1981 『日本農書全集』第27巻 農山村漁村文化協会
・『農業図絵』 1983 『日本農書全集』第26巻 農文協
・『近世北陸農業史―加賀藩農書の研究―』 1987 農文協
・『民家検労図』 1995 石川県図書館協会
・『加賀藩十村役田辺次郎吉―十村役の実像を求めて―』 1996 田辺次郎吉顕彰会
・『工農業事見聞録』 1998・99 『日本農書全集』第48・49巻 農文協
・『百万石と一百姓―学農 村松標左衛門の生涯―』 2009 農文協
・『埋もれた名著「農業開奩志」―村松標左衛門の壮大な農事研究ノート―』2014 石川農書を読む会
・『激動を生きた一教師の記録―子・孫への遺書―』2011 自家版

 最後に、『週刊読書人』2787号(2009)に書いた、清水隆久著『百万石と一百姓-学農村松標左衛門の生涯-』(農山漁村文化協会2009)の書評を紹介します。

 「百万石」は、「一百姓」に各地の産物調査を命じた。一百姓は、百万石に殖産興業の献策を行い、時には厳しい政治批判を行った。しかし、両者の意図が結びつき実ることはなかった。一百姓は、膨大な著作を残して亡くなった。「百万石」とは、言わずとしれた加賀藩である。「一百姓」とは、十村役(他藩での大庄屋にあたる)でもない能登の村松標左衛門(1762~1841)である。
 百万石の城下町金沢に住む清水隆久は、埋もれていた一百姓の生涯を全8章、40を越える図表、600頁にも及ぶ大著で明らかにした。そして、彼の主要著作を地道に翻刻・現代語訳・注記・解題して、現代に甦らせた。『百万石と一百姓』と名づけた意図を清水は、「百姓の矜持に生き、百万石の権威に対しても敢て臆することなく、自らを主張した百姓が存在したこと、さらにこうした一百姓の力にも依存せざるを得なくなった時代の流れを、広く知ってほしいとの思い」(まえがき)があったからだと述べている。

 清水は、村松標左衛門を「学農」と呼ぶ。学農とは、清水の造語である。たぎるような学問への情熱、旺盛な知識欲を持つ標左衛門は、辺鄙な奥能登の寒村に住みながら、万巻の書物を渉猟して通読し我が物とした。本草学を当時最高の本草学者小野蘭山に学び、自ら薬園経営を行い薬種業を営みながら、全22冊3300余点に及ぶ「腊葉帖」(1797~1840)という植物標本を残した。今も色鮮やかに残る押し葉帖は、在野の本草学者村松標左衛門の真面目を伝えている。

 採集・観察・分類比較という本草学的手法を産物調査に活かして、全7巻8分野117項目からなる「工農業事見聞録」(文政末~天保年間 『日本農書全集』第48・49巻)他の見聞録を著した。西南暖地で書かれた宮崎安貞の「農業全書」を批判的に摂取して、東北寒地の実態に即した全12巻の農書「農業開奩志」(1795~)を著した。
 ご先祖様から受け継いだ200石の大規模な豪農経営の存続維持を願って、「村松家訓」(~1841 同第27巻)を子孫に残した。さらには、馬療書として全20巻にも及ぶ「馬療木鐸大全」(1834)他を著した。こうして30近くの著作を残した一百姓の姿を清水は、篤農・精農・老農といったこれまでの言葉では表現しきれないと考えたのである。
 学農村松標左衛門の根底を支えていたものは、「百姓は百姓にて事足り候」(村松家訓)という矜持、百姓としての誇りであった。標左衛門が活躍した天明から天保の時期は、凶作・不作に見舞われ、藩の財政は逼迫し、藩政改革は思うようにすすまなかった。百万石は、一百姓にすぎない学農に助けを求めざるをえなかった。標左衛門は、農業・農民を大切にする政治こそが仁政であるという「利民の志」(1824「物産方届覚書」)を胸に、藩の産物方として全国各地の産物調査をして藩に報告した。さらには、文政期に100項目、天保期には133項目からなる上申書を提出している。そこには、藩の政治に対する鋭い分析、命がけともいえる厳しい批判が含まれていた。

 清水の学問的出発点は、不惑を越えて1975年に著した『近世北陸農業技術史-鹿野小四郎著「農事遺書」を中心として-』である。還暦を過ぎて、『近世北陸農業史-加賀藩農書の研究-』(1987)で、それまでの研究の一応のまとめを行った。『農業図絵』(1983)、『民家検労図』(1995)の仕事は、江戸時代の農業を絵で見て分かるようにさせてくれた。そして2009年、傘寿を過ぎてこの大著を著した。

 「“生涯書生”をモットーに小刻みの目標を掲げながら、六〇年近く研究に取り組んできた」(あとがき)清水の高校教師として、在野の農業史研究者としての愚直ともいえる一直線の生き方は、何かしら学農村松標左衛門を髣髴とさせるものがあるのではなかろうか。本書は、長年に渡る奥様の全面的協力に満腔の謝意を表して、閉じられている。

※右上の写真は、1989年5月に、村松標左衛門の故郷(現羽咋郡志賀町町居)を近畿農書を読む会と清水先生御夫妻で訪ねたときのものです。