学長・野風草だより

No.805

No.805 2017年7月1日(土)

元学長の山本晴義さんを偲ぶ会

 山本晴義先生が4月8日、享年92歳で亡くなられました。5月になってお聞きして、びっくりしました。すでに家族葬を済まされたのこと。すぐに大阪哲学学校のお世話をされている平等文博先生に連絡を取りました。田畑稔先生らと偲ぶ会を予定されているとのことでしたので、30年お勤めいただいてご縁の深かった本学で是非してくださいとお願いしました。
 当日は、ご遺族はじめ関係する方々が50名を超えて集まり、山本先生を偲びました。関係者の追悼メッセージ、1996年に定年退職されて特任教授になられた時に書かれた「日日断章―略歴と著作史」(『大阪経大論集』第46巻6号 1996)、そして1996年以降の著作・論文リストが収録されたパンフレットが、参会者に配布されました。

 ご遺族を代表して、娘さんの山本美樹様から、次のようなご挨拶がありました。「このようなすてきな「偲ぶ会」を開いていただきまして、ありがとうございました。父は太陽のような人でした。大学からいつも大きな声で、「ただいま〜〜!」と言って帰ってくる父でした。毎朝、家族の前で手帳を開いて、一日の計画を話すんですけれども、それはちょっとみんな面倒がっておりました。(笑)
 その太陽がいなくなりまして、やはり、母も私も寂しい思いです。父はまず腎臓ガンになり、それから圧迫骨折で入院いたしまして、最後は誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。父は肺炎で亡くなりましたから、入院してあまり話すこともありませんでした。そんな父が、「大阪経済大学、哲学学校」ととてもうれしそうな声で、何度か言うことがありました。私もそんな父に、とてもうれしくて、「そうね、お父さんの大切なところね」と話し、楽しい時間を過ごしました。それは短い時間でしたが、私が毎日のように父のところに通いまして、そのことは頭から離れないことでした。このような父は、思い出に残る笑顔を遺してくれました。
 父の大切な、大好きな大阪経済大学でこのような「偲ぶ会」を開いていただき、父もさぞ喜んでいることだろうと思います。ありがとうございました。」

 私からは、次のような挨拶をさせていただきました。「山本先生には、私が学長になって名誉教授の懇親会を始めてから、毎回必ずご出席いただきました。近況、心境などを、例の調子で愉快に話してくださいました。最初にわざと5分ですよと牽制しますと、わかったわかったと言われて10分をこえ、そろそろと言いますと、15分で終わりました。大阪哲学学校のことを話される時が、一番楽しそうでした。2015年には卆寿のお祝いで、長寿のお箸をお贈りさせていただくと、大変喜ばれていましたのに。ご冥福をお祈りいたします。」

 以下、土居充夫先生と平等文博先生の追悼メッセージを紹介します。
 「晴義先生がお亡くなりになったと聞いても、いまだにピンとこないところがあります。私の中では、タフで疲れを知らない晴義先生のイメージがそれだけ強いのです。でも90歳を超えておられたのですから、それが自然の摂理というべきなのでしょう。
 晴義先生には、ハーバーマスの『公共性の構造転換』の「1990年新版への序言」の存在を教えていただきました。それを通して、市民社会の重要性を晴義先生は教えて下さったように思います。その後私の研究は遅々として進まず、いたずらに年齢を重ねてきました。晴義先生の訃報に接したことを機会に、初心に帰って勉強をしたいと考えています。 土居充夫」

 「山本先生が肺炎で入院されたと聞き、3月11日の哲学学校の帰りに田畑さんと尼崎の千船病院にお見舞いに行ったのが、お会いした最後となった。容体は落ち着いている様子だったが、頬が痩け、また受け答えもやや覚束なかった。それでも、少しすると私たちをわかってくださり、代わるがわる手を握りながら「長いことありがとう、お世話になった、お別れや」と言われ、そして「楽しかったなあ」と何度も繰りかえされた。
 学生時代、とぼけた口調で笑いを誘いながら、「現代独占資本のイデオロギーは……」と大きな目をぐりぐりさせて話される先生にお目にかかってから45年、公私ともに数えきれぬほどお世話になった。1986年に大阪哲学学校を始めてからは、校長と運営責任者として二人三脚で活動を共にした。歩くのがしんどくなられてからはさすがに欠席がちだったが、「みんなの顔を見るのがうれしいんや」と時おり宝塚から尼崎まで出て来てくださった。哲学学校には、深い思いを持ち続けておられた。
 いつもざっくばらんな態度で接してくださる先生に、事あらためて感謝の気持ちをお伝えすることもせぬままの別れとなってしまった。長い間、本当にありがとうございました、私もご一緒できてとても楽しかったです! 平等文博」