学長・野風草だより

No.81 ~ 90 

No.81 2011年5月6日(月)

一緒に大学院で学ぼう!

大経大の大学院の案内が出来ました。上新庄キャンパスと、北浜キャンパスとの2つです。そこに書いた挨拶文を紹介します。下の写真は私の大学院時代の写真で、大経大に就職する前のオーバードクターの1983年に、関西農業史研究会が終わって近くの居酒屋の前でです。一番左が私で、前列の左から岡光夫、飯沼二郎、三橋時雄、三好正喜先生で、私の4人の恩師です。

研究は楽しいか?苦しいか?それとも?

もう30年も前となった大学院時代を思い出してみる。修士・博士・オーバードクター時代(23~33歳)に指導していただいた先生は、論理的に厳密なこと で有名だった。2ヶ月に1回くらい研究報告の順番が回ってきたが、1週間くらい前から徹夜続き。夢の中で、報告後ぼろくそに言われ泣いていた。それくらい 緊張した。調査・研究したことを2時間くらい報告すると、毎回「君の言いたいことはこういうことかね。それで・・・」と5分でまとめられ、絶句するのだっ た。書いた論文の草稿を一字一句、厳密に直していただいた。

オーバードクターの時、高校の先生と地域の古文書調査を行った。「徳永君、研究は楽しいかい?」と尋ねられた。「もちろん、苦しいです!」と答えた。「それでは、君の論文を読んだ人は、楽しくないよ。」と釘を刺された。「地域の人々は、もっと楽しく生きてるよ」。楽しく論文なんて書けるのだろうかと悩んだ。
25歳の時から、農業史の研究会のお世話をはじめ、現在も続いている。もう30年以上になる。毎月1回、農業史が好きというだけで、老若男女、職業は一切関係なく集まり、議論し酒論を繰り返してきた。就職しても40歳くらいまで、年に1回は報告したが、いつも「整理が悪い」とけなされた。理科系と文科系の違いやと居直ったが、幾つになっても真剣に議論が出来るのはありがたかった。
40歳ころから、文献や文書を調べるだけではダメだと思い始め、日本、アジアの農村を現場調査するようになった。研究仲間たちのおかげで、ドミトリーの奥の奥まで入り込めた。スイカの名人から、「先生、なんで裃脱いで、話さへんの」と言われて、何のことかわからなかった。こちらとしては、普段どおり話しているつもりだったのだが。5年くらいして、「先生、顔が丸くなったなあ」と言われた。中年太りのせいか。
本を読んだり、調査をしたり、一人考えたり、議論をしたり、論文を書いたり、やっぱり今も一番好きだ。だから、こうして続いている。何のために研究するのか、大学院入学以来35年間ずっと考えてきた。答えは、見つかるのだろうか。もうあとわずかになってきたというのに。(酒飲みながら)一緒に考えてみないか。

五代友厚に学ぶ―地位か名誉か金か、いや、大切なのは目的だ―

北浜キャンパスのある大阪証券取引所の前に立っている銅像をご存知ですか。「東の渋沢(栄一)、西の五代」と称された五代友厚(1835~85)です。彼 は薩摩で生まれ、明治維新後に大阪で官職に就いた後、民間に転じ、紡績業,鉱業,鉄道業などを幅広く手がけ、一私人として大阪経済の発展に多大の貢献をし ました。

1932年、大阪経済界の期待を担って、大阪経済大学の前身である浪華高等商業学校が創立されました。1935年に昭和高商となり、渋沢栄一もその設立に協力した東京の大倉高商(現東京経大)、松山高商(現松山大)とともに私立の3高商として名を馳せ、多くの有為な人材を輩出しました。1949年に新制の大阪経済大学となり、大阪市内にある経済・経営系の私立大学として発展し、2005年には北浜キャンパスを開設しました。
明治維新前後の混乱期と同じように、今は「移行期混乱-経済成長神話の終わり-」(平川克美)です。五代友厚は、成功する人生のもっとも大切なこととして、「地位か名誉か金か、いや、大切なのは目的だ。」と言いました。五代友厚が見守る北浜キャンパスで、あなたの目的を実現しませんか。まだ見つかってない方、一緒に探してみませんか。