ブックタイトル17歳からのメッセージReport2018

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17歳からのメッセージReport2018

17歳からのメッセージ1717歳からのメッセージ奨励賞学校特別賞応募参加校一覧学生審査員賞金賞銀賞グランプリいつもと変わらない食卓風景。父と私。ドラマを観ながら味噌汁をすする私は、何げなく父に話しかけた。「お父さんってさぁ、歳の差恋愛とかってどう思う?」一瞬父は私の顔をじっと見て、普段は適当なはずが何故か熱く語りだした。おまけに結婚の事まで語りだす始末。「別に俺は歳の差に反対とかせんし、お前の好きなようにすりゃええよ。でもな、これだけ言えるんは、結婚までいくんやったら筋通せぇよ。」そう言う父はいろいろな経験をし、同じくらいの失敗をしてきた。私は今は母と暮らしていない。それを思うと父の恋愛話には説得力がないというかなんというか……。しかし、父の言う「筋通せ」とはいったい何だろう?父は言う。「お前はまだガキやからもう少し大人になってから考えな。」いやますます意味が分からない。確かに学生である以上まだガキかも知れないし、親にとっては子どもなんてガキにすぎないだろう。しかし私はもうちょっとで社会に出る人間。少しは教えてくれてもいいじゃん……。「じゃあ早く大人になっていろいろな知識持つ。」そう言うと父は笑いだし、ビールを飲み始めた。そんな父の姿を見ていると、別に早く大人になろうとしなくてもいいのかなってなる。私が父とお酒を飲み話すことも、私が4歳も上の人と付き合って結婚するだろうってことも、まだ当分先の話。私は、先日、一人で買いものをすることがあった。私は一人で店に向かい、一人で商品を選び、一人会計をし、家に帰った。晴れた日の中ペダルをこぐのは気持ち良かったし、じっくり商品を眺め、悩みながら買うのも楽しかった。しかし、私は家に帰ってから気づいた。出掛けてから家に帰るまで一言も発していない。誰とも話していない。たまたまだとも言え◆父と私。大人と恋愛。香川県立飯山高等学校(香川県)大藤夏美さん◆人とのつながり高知県立岡豊高等学校(高知県)山岡悠さんそれは所詮自分だけのものであり、他者との関係の中で構成される社会ではほとんど意味を為さないものだからである。繰り返しになるが、「自己肯定」はやろうと思ってするものではない。自分が「やった」「できた」と感じた時、自然と行われるものであり、必要以上の肯定は各個人の進歩の妨げになりかねない。「自己肯定」が「自己満足」へ取って換わる瞬間である。自殺や苦手を減らすために推奨される「自己肯定感」とやらは、逆に人々を破滅へと導く可能性を持っている。人生を喰らってしまう虎は全ての人の心に潜んでいるのだから。何も考えない時間が欲しい。就寝前の午前二時、そんな思いが自分の中に生まれた。今、家を出て、目的地も決めず、ただ静かなどこかへ行きたい。将来のことも、家庭のことも、部活のことも、日中延延と考えて嫌になっていることを全て捨てられることがしたい。自分の中に突如生まれた感情に、自分でも訳が分からず動揺した。それから、私は数日おきにその感情に振りまわされた。ある日、自転車で帰宅した後、家に入らずに近所を歩きまわった。夜の八時過ぎの道を明かりも持たず、イヤホンで音楽を聴きながらひたすら歩いた。恐怖心と好奇心に包まれ、静かに聞こえる自分の足音を支えにして、見知った道をゆっくりと歩いた。歩いている間、頭の中には聴いている音楽のメロディーと自分の足音だけが広がり、自分が捨ててしまいたいと思っていた感情は、その十数分の間だけ、綺麗に捨てることができ、とても心が落ちついた。静かな場所で一人で、ほとんどの音を遮断して生活する。今の社会では不可能に近い生活だと思う。しかし、悩んだとき、何もかも嫌になったとき、この環境と出会い、飛び込むことができれば、少しでも心が休まるのではと思う。忙しい現代社会で、「何も考えない時間が欲しい。」と言える社会、「いいね、それ。」と言ってもらえる社会になってほしいと思う。◆現代社会で私が望む静かさ岡山市立岡山後楽館高等学校(岡山県)中尾楓果さんはない。おそらく他校でも言える事だ。よく「一日練習。」と言うと、「一日何するの?」と言われる。その人達は私達がほぼ毎日、手本と紙に向かって、静かな空間で字を書き、一日を過ごしていると思っているのではないか。もちろんその様な臨書の時間もある。だが、私達の書道部には「書道パフォーマンス」というのがある。イベントや大会もあり、年に結構な数を行なっている。しかも、パフォーマンス一つ作成するのに、二、三ヶ月必要だ。臨書の時間よりもパフォーマンスを練習する期間の方が長い。パフォーマンスは足腰を使い、体幹を使い、音楽に合わせながら、声と動きをそろえ、背景までも書く。これは、簡単そうに見えるが、実はとてもハードであり、地味なんかではない。逆にとても目立つ事だ。次の日からは筋肉痛と闘い続ける。運動部のみのトレーニングにも書道部は参加する。イベントや大会が近づくと、学校を出るのは、夜の八時を超える日もある。私は書道部が「地味そうな部活」だと思ってほしくない。書道を知らない人も偏見を持たず、一度書道パフォーマンスを見てもらいたい。書道の違うあり方も知ってもらいたい。考え方は必ず変わるだろう。私はそう思う。李徴は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」によってその身を浅ましい人食い虎へと成り果てた。妻子よりも何よりも自分の才能を信じた、自らが生んだ詩を肯定した、その末路である。つまり、李徴は「自己肯定」によって、その身を自らの才もろとも滅ぼした。「自己肯定感」を大事にしろ、もしくは持てと最近よくこの言葉を多方面から耳にする。冒頭の例を鑑みれば分かるとおり、私は積極的に「自己肯定感」を持つことに賛同できない。もちろん自己を肯定することに否定的なわけではない。ただ、それは無意識のうちに自分に為されるものであり、進んで積極的に乱用されるべきではない。「自己肯定」はやがて「妥協」へと変わり、初めの山月記の例のような「空虚な見栄」へと昇華する。なぜなら、自分で自分をどれだけ肯定しようが、◆叢の中の我が友へ捧ぐ岡山県立瀬戸高等学校(岡山県)宮尾知志さん