Column

2024.01.15

Specialインタビュー vol.1 ~「ありえない、を超えよう。」を実現する人を訪ねて~ 小笠原啓太さん

「ローカル・リサーチA」のフィールドワーク先は島根県。地域の特性を活かしながら、地域の活性化と社会課題の解決に取り組む企業や団体が数多くあり、実際に様々な取り組みが行われています。
ふるさと島根定住財団の職員である小笠原啓太さんは、常識や国境を越えて様々な人とつながり、ご縁コントロ実行委員会として地域活性化に貢献。国際共創学部のテーマ「ありえない、を超えよう。」をまさに具現化した人生を歩んでいます。現在、島根県しまね暮らし推進課に出向中の小笠原さんに話をうかがいました。

小笠原啓太(おがさわら・けいた)さん
ご縁コントロ実行委員会 実行委員長
(公益財団法人ふるさと島根定住財団 職員、島根県庁しまね暮らし推進課出向中)

【プロフィール】
香川県出身。京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科卒業。同大からリオ・デ・ジャネイロ連邦大学に派遣留学。帰国後、ブラジル人材サービス会社に就職し、11年間勤務。転勤先の島根にてブラジル人と日本人のご縁を紡ぐ「ご縁コントロ実行委員会」を立ち上げる。2016年公益財団法人ふるさと島根定住財団に転職。現在、島根県しまね暮らし推進課に出向中。

●幼少期から「ブラジルに行きたい」と言い続ける

――まずは小笠原さんの経歴から教えてください

出身は香川県です。コンビニもない小さな町で、早く町の外の世界を見たかったです。子どもの頃から「ブラジルに行く」と公言していて、中学・高校でも「20歳になったらブラジルに行く」と言い続けていました。

――なぜブラジルだったのでしょうか?

地球の裏側にあって、日本から一番遠そうだったからですかね(笑)。高校卒業後、奨学金とアルバイトで生計を立てながら大学でポルトガル語を勉強しました。実は父親に大きな借金があり、仕送りの無い学生生活だったのですが、3年生の時にやっと貯まったお金で1カ月間だけブラジルに行きました。公言通りの20歳です。初めてのブラジル生活では「これはもっと長期間行かないと言語すら身につかない」と痛感し、猛勉強しました。そして4年生の時、大学の基金から出資を受けて1年間の留学ができる資格試験に挑戦。何とか合格し、ブラジル留学に行くことになりました。

――留学して心境の変化などありましたか?

正直に告白すると、実はブラジルに到着してスグ後悔しました(笑)。 「ブラジルに行く」という事が子どもの頃からの目的であって、それを達成してしまったので「やりたいこと」が分からなくなったからです。4年生の大事な時期に1年間も留学することを周りの誰1人賛成してくれていなかったことも頭の中で尾を引いていたのかも知れません。
しかし、目標を失い、やりたいことが分からなくなったからこそ、ブラジルで自分に何ができるかを一生懸命考えました。必死に足掻いていたんですね。語学の勉強だけでなく、招待されたパーティーで日本料理をふるまってみたり、大学の空き部屋を借りて日本語教室を開いてみたり、日本人の僕がその時できることを一生懸命考えて挑戦し続けました。実は、親の借金返済を自分に課せられていたにもかかわらず、自分の全財産を使って留学したので、さすがに何かを得なければと必死でした。
しかし、このブラジルでの足掻きが大きな自信に繋がりました。「今の自分に在るものを駆使して一生懸命に動けば、おのずと道は拓ける」ということに気づいたんです。この経験を次につなげたいと思うようになりました。

●“今の自分に在るもの”を駆使して懸命に取り組み結果を出す

――帰国したのは?

大学4年の2月です。すでに同級生の就職活動時期は終わっていました(笑)。とはいえ、親の借金と奨学金の返済を抱えていたので何が何でも就職しなければなりません。履歴書を書いていくつもの企業に送り、何とか大阪本社の日系ブラジル人の人材サービス会社に就職しました。
とくに自分がやりたいことはまだ見つかっていませんでしたが、“今の自分に在るもの”――この時点ではポルトガル語――を生かして仕事がしたかったんです。
もともと目標がないと前に向かって走れない性格で、入社式では「30歳になったら経営者になります。よろしくお願いします」とあいさつしました。

――すごいですね。まわりの反響はいかがでしたか?

ドン引きでした(笑)。でも、社長は気に入ってくれて、どんどん引き上げてくれました。入社3年目で岡山事業所の歴代最年少の所長に就任し、懸命に頑張りました。
ところが、2008年にリーマン・ショックがあって、築き上げてきた実績がゼロになってしまいました。何人かの従業員に解雇通告をしなければならない事態になってしまって。ポルトガル語の仕事を通して誰かの役に立ちたかったのに、これでは誰も幸せにできていないと暗澹たる気持ちになり、辞めることも考えていましたね。
でも、リーマン・ショックの影響がおさまりかけた頃、島根県の出雲事業所への転勤が決まったんです。解雇後にブラジルに帰れず岡山で暮らしていた元従業員たちを連れて出雲へ行きました。それが2009年です。

●友だちを作りたくてブラジル人と地域住民との交流BBQを企画実施

――従業員の方々と共に出雲で再スタートしたわけですね

そうです。彼らも僕自身も幸せを感じられ、かつお客様に貢献できる職場を作ろうと心機一転、頑張りました。その甲斐あってか、僕が所長就任後の5年間で業績は回復。年間100名ずつ増員を図るまでになり、6年目には650名以上の従業員を抱える事業所に成長しました。お客様にも恵まれていたのだと思います。従業員の給与改善や安定的な雇用が実現できる体制作りにも取り組みました。
ただ、ふと我に返った時「あれ、出雲で一人も友だちができていないぞ」って気づいて。

――仕事に一生懸命すぎて友だちを作る余裕がなかった?

そうなんです。ブラジル人の従業員たちも同じでした。「土日に一緒に遊ぶ友人がいない」と言うわけです。共に戦い、信頼し合える関係になっていた彼らの心に寄り添えていないことに気づきました。これはマズイと思って、地元の人たちとの交流BBQイベントを企画しました。名付けて「ご縁コントロ」です。出雲大社のある島根は「ご縁」の聖地であり、ポルトガル語で「出会い」はエンコントロ(encontro)と言います。これらを掛け合わせ名付けたこの「ご縁コントロ」は、おもしろいことに想像以上に地元の方々が喜んでくれました。実は、同じ地域で暮らすブラジル人たちとどう接していいのかわからず、それが長年の地域課題でもあったそうです。でも、BBQが解決の糸口になったとのこと。従業員や僕にとっては友だちを作る絶好の機会。まさにWin-Winの関係がそこで育まれたわけです。
多くが不安定な雇用環境にある彼らブラジル人たちが求めていたのは「必要とされる喜び」「ここに居て良いという感覚」でした。そして、彼らと地域の人たちとの交流活動を続けて行く中で、僕自身は自分の居場所を見つけました。「僕は人と人との交流を支援するという立ち位置を求めていた」と気づいたんです。いつかそういった仕事ができるといいなとうっすら思い始めていました。

●ふるさと島根定住財団を通じて出会った人たちは、自分にとってラブ&ピースな世界だった

――その思いが「ふるさと島根定住財団」への転職につながったんですね

交流BBQ「ご縁コントロ」がさまざまなメディアに取り上げられるようになって、僕もそのつど自分が思う地域課題について話していました。そうしたらふるさと島根定住財団から声がかかり、大阪で開催された「しまねUIターンフェア」にIターンの先輩として参加することになりました。それが最初の出会いです。
ふるさと島根定住財団は、県内就職を促進するため、仕事紹介やUIターンの支援などを実施する組織です。人と人をつなぎ、地域を活性化する事業も職員も魅力に満ちていて、僕にはラブ&ピースの世界に見えました。何より自分がやってきたことが生かせるし、やりたいこともできそうな気がしました。
そんな矢先、子どもが生まれることがわかり、1年間育休をとることに。所長の自分が抜けても組織が動くよう体制を整え、育休を取りました。その時はまだ1年後には職場へ復帰しようと考えていました。

――すぐに転職しようとは考えていなかったわけですね

そうなんです。転機は育休中に訪れました。ブラジル人の従業員たちが僕のところに来て「啓太は僕らに日本語を教えてくれ、職場で困った時はいつも助けてくれた。BBQで友だちまで作ってくれた。僕らの夢はかなったけど、啓太の夢がかなっていない。啓太は啓太の人生を生きるべきだ」と。たぶん僕から“何か”を感じていたのでしょう。もう涙がとまりませんでした。

――感動的なお話です。彼らが小笠原さんの背中を押してくれたんですね

「実はBBQ以降、いつかこの島根を故郷にして、人と人とをつなぐ仕事をする人生を作り上げたいと考えるようになっていた。君たちがそう言ってくれるなら、次へ向かうことにするよ」と話し、定住財団へ転職しました。この頃には奨学金と親の借金は整理がついていました。

●ありのままの島根を見て感じてほしい

――ふるさと島根定住財団の使命は定住人口を増やすことですね

基本的にはその通りです。ただ、魅力的な地域であり、魅力的な人がいなければ、移住・定住は起こりません。何よりもまず島根という地域が魅力的である必要があります。そのためには、島根に住みたいと考えてくれる人たちの居場所作りに取り組むことが、イコール財団の仕事に直結していることだと感じています。そうした取り組み自体が僕自身の生きがいであり、僕や家族の暮らしや人生を面白くしてくれると信じています。
たとえば、やりたいことを島根で実現するお手伝いをする「しまね起業家スクール」の運営に参画してみたり、中山間地域でも過疎に負けることなくいきいきしたまちづくりに取り組む「出雲市伊野地区」の活動に加わったり、「しまね若者100人のつどい」という交流イベントを仲間たちと開催したり、ブラジル人と日本人の会話のきっかけになることを目的としたコミュニティラジオの番組づくりに参画したり、島根に移住したばかりの人たちと島根のプレーヤーを繋ぐことを目的とした小さな交流会を家族で運営してみたり。人と人を繋ぐことを通して新しい価値の創造や地域の魅力化に取り組んでいます。

――今後の夢は?

僕は財団の仕事が大好きなのですが、財団だけでなく今出向中の県庁にしても業務に守備範囲があります。でも、この守備範囲の外にこそ可能性が転がっていたりするので、そこをたくさん拾い集めて財団の事業として仕立て直していきたいです。

――大阪経済大学国際共創学部の学生がフィールドワークで島根に訪れます。何か学生に期待することは?

ありのままに感じられる島根を持ち帰っていただきたいです。島根のような“地域の在り方”もあることを感じてもらえたら十分。今は資本主義、合理主義でコスパなど表面的なことで評価されてしまう時代です。でも、島根の人々は、人と人との交流や、自分の暮らしをごく当たり前のこととして大事にしています。もちろん全員ではありませんが、そういう人たちが多い土地だからこそ紡がれているものを、学生の皆さんの曇りなき眼で見てもらえたらと思います。
地域と多様に関わる人々のことを「関係人口」と言いますが、移住者や旅行者の視点で島根を見つめるのではなく、何か一緒にできることがあればといった観点で島根を見ていただき、ひるがえって「自分自身が大事にしたいものは何か」を見つけてもらえたらうれしいです。
目の前の課題や生きにくさに“今の自分に在るもの”を掛け合わせて一生懸命に取り組めば必ず新たな道は拓けるし、自分の居場所は見つかるはずです。