2025.08.04
学部・大学院
オリンピック金メダリスト 谷本歩実氏による講演会 「トップアスリートの思考力」

2025年6月26日、人間科学部「スポーツ健康科学概論」の講義で、「トップアスリートの思考力」をテーマに講演会を開催しました。講師としてお迎えしたのは、本学客員教授で女子柔道63キロ級オリンピック金メダリストの谷本歩実氏です。

[谷本歩実氏 プロフィール] 愛知県安城市出身。2004年アテネ五輪、2008年北京五輪 女子柔道63キロ級金メダリスト。全試合一本勝ちという快挙を成し遂げた柔道界のレジェンド。2024年パリ五輪では日本選手団副団長を務める。現在は日本オリンピック委員会(JOC)理事として選手強化に尽力。体育学・医学・栄養学の資格を有し、スポーツ科学に基づいた指導にも精通。
“日の丸を背負うこと”の重さ

谷本氏は初めに、オリンピック選手にとって重圧の象徴ともいえる、“日の丸を背負うこと”について、学生たちに問いかけました。国を代表して戦うプレッシャーは計り知れません。学生たちは「逃げ出したくなってしまいそう」「頭がパンクすると思う」など、想像力を働かせて口々に答えました。
そこで谷本氏は、二人のエピソードを紹介。「五輪金メダリストのある選手は、本番前日の深夜に歩いているところを目撃されましたが、翌朝何も覚えていなかったそうです。また、ある代表監督は、合宿中に腹痛を訴え病院へ行くと、胃に4つも穴が空いていたそうです。選手も指導者も、それほどまでの重圧と必死に闘っているのです」。

恩師から教わった“負ける覚悟”

国を背負うアスリートには、覚悟が必要です。谷本氏はそのことを、恩師であるバルセロナ五輪金メダリストの古賀稔彦氏から教わったと話します。恩師との出会いは、谷本氏が大学1年生の時。オリンピックに出たいか問われ「はい」と答えた谷本氏。すると古賀氏から「金メダルを取るために血のにじむような努力ができるのか。そして自分の中で、金メダルを取る覚悟と“負ける覚悟”を共存させなければいけない」と言われたそうです。
「柔道は金メダルを取って当たり前。試合に負けると、“日本の恥だ”と容赦ない批判の声が届きます。それでも(柔道場の)畳の上に戻る覚悟、つまり“負ける覚悟”を持たねばならないと先生は教えてくれました。この教えは私の人生に深く刻まれています」とアスリートに必要な、勝利だけでなく敗北をも受け入れる覚悟について語りました。

準備力こそ、覚悟の体現

谷本氏によると、金メダリストたちは口を揃えて「準備力が一番大切だと伝えたい」と語るそうです。
「五輪連覇を果たした、ある柔道選手の『僕は負けることだけを考えて今日(オリンピック本番)を迎えた』というメダル獲得後の言葉や、『常に最悪を想定し、最大限の準備をする』という考え方から、“準備力こそが覚悟の体現”だと教わりました」と、自身が実際に影響を受けたアスリートの言葉も紹介。徹底的に準備をすることこそが、アスリートとしての覚悟の現れであることを示しました。

勝利に向けた準備は、身体的なことだけでなく、心に関しても必要だと谷本氏は述べます。
自律神経を整えるための日光浴や深呼吸はもちろんのこと、本番の朝にきちんと朝食を摂れるようにする(緊張で食事がのどを通らないことを防ぐ)ための練習までしたそうです。
また、悩みを打ち明けられる環境の重要性にも言及。相談相手の存在によって心に余裕が生まれ、自分を見つめ直すきっかけになるのです。またそうした心のケアが、ケガの早期回復にもつながるのだといいます。「“我慢は美徳”という風潮に惑わされず、辛いことは人に話してほしい」と学生に語りかけました。

“魔法の言葉”で力を引き出す

アスリートたちが実際に取り入れている心のケアの一つとして、谷本氏は感謝のワークを取り上げました。“ありがとう”―その言葉が人を変え、力を引き出すのだと強く語ります。
谷本氏は、その場にいる学生たちからも“ありがとう”を引き出しました。「朝起こしてくれてありがとう」「ご飯を作ってくれてありがとう」「出会ってくれてありがとう」といった学生たちの素直な声が上がり、場は一気に和やかな雰囲気に包まれました。感謝の気持ちを口にすることでセロトニン分泌が促され、心が落ち着き、パフォーマンスを高める効果もあるそうです。谷本氏は「“ありがとう”は単なる礼儀ではありません。心身の健康やパフォーマンスを高める“魔法の言葉”です」と話します。

誰も一人にしないチームを目指して

良いチームの共通点として「リーダーを一人にしない」というものがあります。谷本氏はそれに加えて、「誰も一人にしないこと」が重要だと述べます。たとえば、失敗をした選手に対して励ましの言葉を伝えるだけでなく、「試合のビデオを撮ってほしい」「水を取ってきて」といった小さな役割を与えるように心がけているそうです。そうした働きかけが選手の自尊心を回復させ、心の再起をもたらすのです。

体操男子団体の金メダル獲得の背景にも、そうしたなんでも言い合えるようなチーム環境があったことを紹介し、「思いを共有し、お互いの覚悟を知り同じ目標を再確認する。そして、チームは真に一つになる。個人競技であっても、仲間の存在が支えになることに変わりはない。皆さんも仲間を大切にしてください。“誰かと一緒に戦っている”という実感こそがまさに、チーム力なのです」と谷本氏は語りました。

心の矢印を外へ-トップアスリートの思考力

プレッシャーが最高潮に達する本番、大切なのは “心の矢印”だと谷本氏はいいます。「“ミスをしたらどうしよう”と考え、心の矢印を自分の不安に向けてしまうと、満足のいくパフォーマンスはできません。そうではなく、“自分を支え応援してくれたみんなに報いたい”と考えるのです。そんな風に心の矢印を外に向けることで、本来の力を発揮することができます」
極度の緊張下で、「やばい」と思う瞬間や負けを覚悟する瞬間も、もちろんあるといいます。そんなときに脳裏をよぎるのは、仲間や応援してくれる人たちの顔。「その存在への思いこそが、揺るぎない軸となり、力を引き出す原動力になるのです」と語りました。

講演の最後に谷本氏は、あるマラソン選手とのエピソードを紹介しました。
「とあるマラソン選手に『どれだけ走ればメダルが取れますか。私は人生で地球を4周半もしましたがメダルを取れませんでした』と打ち明けられました。その選手の言うように、努力だけで結果は保証されません。しかしそれでも、アスリートは限界に挑み続けるのです」。

底知れぬ重圧や緊張と闘いながら、心の矢印を外へ向けることで限界に挑み続けてきた谷本氏の語った「トップアスリートの思考力」。この講演をきっかけに、学生たちの心の矢印も、少し外へ向いたのではないでしょうか。

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