11月2日、本学同窓会「大樟会」総会にアグネス・チャン氏をお迎えし、経済学部・大樟会の共同開催による記念講演を行いました。芸能活動のみならず、世界の子どもを支援する活動など多様な分野で活躍しているアグネス氏。今年4月、本学経済学部客員教授に就任されています。「私のターニングポイント」と題した講演で、自身の人生を変えるきっかけとなった、さまざまな出来事や人との出会いについて語りました。

講演に先立ち、小川貴之経済学部長が挨拶として、アグネス氏のこれまでの活動を紹介。その中で「教育や子育て、国際的な子ども支援など多様な分野の活動に関わってこられた経験から、学生のこれからの人生にたくさんの示唆を与えてくださる方だと考えています」と、客員教授としてアグネス氏を招聘した理由を説明。今回の講演会に向けては、アグネス氏の著書『心に響いた人生50の言葉』にある「誰もが私の師である」という言葉を用い、「アグネス氏は、本日の講演会に参加する私たちの師になっていただけるでしょう」と期待を述べました。
聴講者の大きな拍手で迎えられ、壇上に立ったアグネス氏はまず、「大阪経済大学のファミリーの一員として迎えてくれたことをうれしく思っています。自分の人生での経験、学んだことを学生たちにシェアしていきたい」と、客員教授としての抱負を述べられました。
アグネス氏は、「人生の中にはたくさんの曲がり角があります。その時にどの選択をしたかで、運のいい人悪い人になるのだと思っています。不思議なことに、私のターニングポイントには必ず子どもたちがいました」と前置きし、これまでの人生を振り返るストーリーを話し始めます。
香港で6人兄弟の4番目に生まれたアグネス氏は、周囲から優秀な2人の姉と比べられ、幼い頃は内気で自信のない子どもだったといいます。そんなアグネス氏に最初のターニングポイントが訪れたのは中学生の時。ボランティア活動で、体の不自由な子どもの施設を訪問した経験からでした。子どもたちは不自由な体を懸命に操ってアグネス氏たちの元へ集まり、手を使えない替わりに大きな声で歓迎の気持ちを表してくれたそうです。
「今でもその声を鮮明に覚えています。この出会いで、私の人生に対する考え方は大きく変わりました。それまでの私は自分の境遇に不平不満ばかり。でも、彼らに比べたら私はどれほど恵まれた環境にいるのでしょう。不平不満なんて言わず、彼らのためにできることをしようと思いました」
子どもたちが一番困っていたのは、食べ物が足りないこと。一方で、学校の昼食を残している生徒が多いことにアグネス氏は気づきました。食べる前に残すであろう食べ物をもらえたら、学校帰りに施設に持っていける。そう考え、食べ物をもらうお返しに何かできないかと思案しました。「中学生でお小遣いも持っていません。そこで思いついたのは、歌のリクエストに応えること。フォークソング部に所属していたからです。学校からギターを借りて流行歌を練習し、リクエスト用のリストをつくりました。そのリストから選んでもらった歌を歌い、『食べ物を分けてください』と頭を下げました」
このアイデアは大成功し、たくさんの食べ物が集まったそうです。さらに、学校でよく歌うようになった結果、14歳でスカウトされてレコードデビューし、その曲は香港で大ヒット。歌手になるという道も拓けました。「あんなにコンプレックスでいっぱいだった私はなぜ変われたのか。自分の足りない部分を忘れ、できる精一杯をやることを子どもたちが教えてくれたからです」と語ります。
そうした経験から教育論を語る時には、「子どもたちを比べないようにしましょう。比べると自信を失くし、いいものを持っていても外に出さなくなってしまいます。いいところを見て、褒めて励まして育てましょう」と話しているそうです。子どもたちには、「周りのことはあまり気にしないで。自分の中の足りる、足りないなんて気持ちは忘れて、精一杯に何かやれば必ず次の道が見えてきますと伝えたい」と話しました。
日本のプロダクションにスカウトされて17歳で来日し、アイドル歌手としてデビューしたアグネス氏。日本に来て得た一番の宝物は、「平和を愛する心を知ったこと」だと言います。「日本の皆さんは、香港からやってきた私を差別することなく違いを認め、大切にしてくれました。いろんな新しいことを教えてくれて育ててくれました。広島や長崎、沖縄の皆さんとも話をしました。平和を広めるためには、一人一人の人間を大切にすることが大切です。一人に平和の心を教えれば、それがどんどん広まっていくと考えるからです」
いまだに世界の50を超える国・地域で戦争や紛争が続いているという現状を指摘し、「私が日本で学んだように、違いを認め合える世界にならないと戦争は終わりません。文化や歴史認識、宗教や民族の違いがあっても共存共栄は可能なのでしょうか。それは、私たちの思想一つだと思います」と語りました。
日本でもその歌唱力と人柄が認められて高い人気を獲得したアグネス氏でしたが、父の働きかけによって転機が訪れます。アグネス氏の父はもともと芸能界入りを大反対していたそうです。日本での忙しい仕事ぶりを知ると父は、「このまま芸能界にいては睡眠も食事も十分にとれず、友人もつくれない。自分の本当の価値が分からなくなるから、誰も知る人のいないカナダに留学しなさい」と忠告。迷う気持ちもありましたが、「お金や名声と違い、一度手に入れた知識は誰にも奪われない、あなたの一生の宝になる」との父の言葉が心に響き、カナダ留学を決心します。
カナダで生活する中で、自分の人生について考える余裕ができたといいます。人生で一番楽しかった時はいつだろうと考えてみると、思い起こすのは中学生でボランティア活動をしていた時のこと。毎日が楽しくて、どうすれば子どもたちから笑顔を引き出せるかをいつも考えていたことを思い出しました。これが自分のやりたいことだと分かったアグネス氏は、仕事以外に人生のもう一つの柱としてボランティア活動をしていこうと決意しました。
カナダ留学を終えて日本に戻ってきたアグネス氏はその意向をプロダクションに伝えますが、反対されてしまいます。プロダクションにとってアグネス氏は商品であり、仕事をするべき時間を使ってボランティア活動をすることはどうしても認めてもらえません。「もう無理だろうか」と思った時、またアグネス氏に大切な出会いがありました。母の生まれ故郷である中国・貴州を初めて訪問する機会を得たのです。
中国は長く鎖国政策を続け、他国からの人の往来を禁止していたため、アグネス氏は母の故郷を訪れたことがありませんでした。80年代になってようやく親戚を訪ねられるようになりました。アグネス氏を歓迎し、村中の子どもたちが集まって歌ってくれます。それはアグネス氏が台湾でレコーディングした曲で、中国では禁止されて聞けないはずの歌でした。実は、母がこっそりと親戚への荷物の中にカセットテープを隠して送り、村の子どもたちはいつかアグネス氏たちが帰ってくる時のために練習していたのだといいます。
「衝撃を受けました。歌には翼があるのだと。海や山、政治の壁を越え、歌は人々の心をつなぐことができるのだと感じました。カトリック信徒である私は、神様は歌で人の心をつなぐために私を歌手にしたのではないかと思いました。曲がヒットするとか関係なく、声がある限り歌い続けようと、心に決めました」
貴州から帰国後のアグネス氏は、一生懸命に歌の仕事に取り組みました。プロダクションと衝突したために歌える場が少なくなっていましたが、場所を選ばずにどこでも心をこめて歌いました。すると、スーパーマーケットの片隅から、少しずつ歌える場所が広がっていったといいます。売上が増えるとプロダクション側も、時間がある時にはボランティア活動をしてもいいとアグネス氏に歩み寄ってくれました。
念願のボランティア活動が可能となったアグネス氏は、「自己中心的に考えていると、いいことはない」という気づきを得たと言います。「誰にでも自分にしかできないことがあります。やりたいことを決めて、損をしてもかまわず、とにかく一生懸命に頑張っていれば、成果がついてきます。私は頑張った結果、光が見えたと思いました」と当時を振り返ります。

「アグネス論争」と呼ばれた子育てを巡る論争も、アグネス氏にとってのターニングポイントとなりました。結婚して出産したアグネス氏が子どもを連れて仕事場に行ったところ批判され、子連れ出勤の是非を巡って賛否両論が繰り広げられ、日本社会で大きな話題となったのです。このニュースを知ってアグネス氏に興味を持ったのは、アメリカのスタンフォード大学の教授です。教授に会うと、「たった一人の歌手が議論を起こしただけで終わらせるのか。それとも、後に続く人のために自分の知識を増やしてちゃんと物が言える人間になるのか。私のもとで、経済学、ジェンダー学、教育学の3つをミックスした学びを深めて博士号をとりなさい」と誘われました。
はじめは、「仕事をしていて子どもがいて、30歳を超えているのに無理だ」と思ったそうです。けれど、夫の後押しもあって迷った末に入学を決意。合格した後に第2子の妊娠が判明するという思いがけない出来事があったものの、教授からの強い応援の言葉を受け、アグネス氏は新生児と3歳の2人の子どもと一緒にアメリカに渡りました。
「子育てをしながらの勉強は、寝る時間もないくらい大変。でも、一日も後悔していません。年齢を重ねてもう一度学ぶチャンスが来た時、学べるありがたさを実感しました。改めて学ぶことの楽しさを知りました。この時の私はきらきら輝いていたと思います。そして、94年に私の論文が認められて教育学博士号を取得できました。この経験は、私に大きな自信を与えてくれました」
世界各国での子どもの支援活動に熱心に取り組むきっかけとなった、初めてアフリカに行った時の経験についても語りました。アグネス氏は85年、24時間テレビのチャリティパーソナリティに選ばれます。番組内の飢餓に直面しているエチオピアの子どもを支援する企画があることを知り、アグネス氏は同行を希望しました。内戦や干ばつ、病気の流行など多くの問題があるために反対されたものの、固い意志でエチオピア行きを実現しました。
事前にエチオピアの現状をしっかりと学んでいったにもかかわらず、現地では想像以上の光景が広がっていたといいます。飢えて骨と皮しかない体で歩くことも満足にできない人たち、コレラや赤痢、マラリアなど病気が蔓延している現状を目の当たりにしました。キャンプに着いて麦の入った袋を運んでいると、わずかに袋から落ちた殻付きの麦を砂が混じっていてもかまわず口に入れる子どもたちの姿を目撃しました。「それほどまでに飢えているのかとショックを受けました。スタッフの誰もが涙ぐんでいました。何も言葉を発することができませんでした」
キャンプには3500人の飢えた子どもたちがいました。アグネス氏は何とかコミュニケーションをとろうと、教わった現地の言葉で歌います。しばらくすると、太ももが大人の指3、4本分ぐらいしかないほど痩せ細っているのに、何人かの子どもたちは立ち上がって踊り出しました。歌に合いの手を入れる子どももいます。「歓迎しようとしてくれる子どもたちの姿を見て、とてもいとしくなりました。もし、ここで病気がうつっても仕方がない。死んでも運命だと思いました。子どもたちを抱え上げて頬ずりやキスをして、本当の触れ合いができました。その時、私はみんなと一緒に生きていることを実感し、素晴らしいことだと思ったのです」
その後のアグネス氏は、いろんな国に足を運んで困難を抱える子どもたちを支援してきました。実際に足を運べない時には募金をして、井戸や病院、学校をつくる活動に関わりました。里親にもなっています。98年、日本ユニセフ協会大使に就任。長年の大使としての活動が認められ、2016年にはユニセフ・アジア親善大使に任命され、今も世界の子どもたちのための活動を続けています。「戦争が続くウクライナやガザ地区にも行ったことがあります。他にも、南スーダンの少年兵士、海に沈んでしまいそうな島国キリバスの問題など、皆さんに知ってほしい話がまだまだたくさんあります。今、私たちは人類のターニングポイントに立っているのではないかと思います」
困難に直面する子どもたちの問題以外にも、「世界で経済格差は大きくなる一方です。また、AIなどの技術が発達した現代で、どのように子どもを教育していくのかという課題もあります。私たち大人は、この新しい時代においてどうやって責任を持ってリードしていけばいいのか。とてもとても大きな課題です」と、世界にはたくさんの課題があると話します。でもアグネス氏は、決して悲観的には考えていません。「私は前向きです。きっと何とかなると思っています。ただ、何とかするには、皆さんと一緒に勉強して知識を増やして対話し、若者ともよく語り合って、未来をつくっていかなければならないと思っています」と、力強く語り、講演を締めくくりました。
講演後の質疑応答では、山本俊一郎学長、角脇忠行大樟会会長、経済学部の小川貴之ゼミの学生3人が参加。子どもの教育、ボランティア活動、芸能活動と、幅広い分野についての質問がアグネス氏に寄せられました。南スーダンの武装勢力の司令官と直接対面し、少年兵の解放を交渉したエピソードもあり、質疑応答でも聞き応えのあるアグネス氏の話が続きます。
最後に、山本学長はアグネス氏の講演を聞き、学生たちに教員としてどのように向き合っていけばいいか考えさせられたと話します。「アグネスさんの話が心に響くのは、経験したことを自分の言葉で話されているから。私たちも教育現場で他人事のように話していないかと振り返ることができました。改めて明日から心を入れ替えて学生に向き合いたいと思います。とても素晴らしい時間でした」と、感謝の言葉を述べました。
学生たちからは講演後、「何事も物怖じせずに挑戦する姿勢の大切さを学びました」「今後の自分自身のモチベーションにつながるお話が聞けました」「平和と自分自身の学びを見つめ直すきっかけとなりました」といった感想が寄せられました。実体験に基づいたアグネス氏のお話は、聴講者の心に残り、自分の人生についても考える機会になったのではないでしょうか。また、時にはユーモアも交えながらのお話から、人々を魅了するアグネス氏の人柄も伝わってきた講演会でした。今後も客員教授として学生と接する中で、アグネス氏の貴重な体験の数々を共有していただくことを期待しています。
