2024.08.28
研究・産官学連携
国の重要文化財に指定『飛脚問屋井野口屋記録』のすごさを読み解く

2024年8月、大阪経済大学日本経済史研究所が保管する歴史資料『飛脚問屋井野口屋いのくちや記録』(以下『井野口屋記録』)が、国の重要文化財に指定されました。重要文化財と聞くと建造物や仏像、芸術品などが思い浮かびますが、歴史資料についても指定が行われています。

『井野口屋記録』とはどういうものなのか、その価値や本学が所有する意義などについて、日本経済史研究所長の高木久史経済学部教授と、本史料を翻刻(古い時代の文字をテキスト化すること)した佛教大学名誉教授で同研究所特別研究所員でもある渡邊忠司先生にお話を伺いました。

(左から)高木久史所長と渡邊忠司先生
江戸時代の飛脚の実態がわかる貴重な史料

まず、『井野口屋記録』とはどのような歴史資料なのでしょうか。用紙を縦に二つ折りにして袋とじにした堅帳和綴の製本33冊からなる飛脚問屋の営業記録で、享保8(1723)年から天保14(1843)年までという長年にわたり代々の当主が書き記したものだと考えられます。

高木所長は「井野口屋は、尾張藩の御用飛脚を務めました。飛脚は江戸時代の流通を担った重要な産業でしたが、記録があまり残っておらずその実態は明らかになっていません。『井野口屋記録』は飛脚の実態がわかる珍しい史料であること、さらに飛脚問屋の経営について成立から発展・縮小まで俯瞰できるまとまった史料である点でも非常に貴重です」と説明します。

本史料は戦前、本研究所に収蔵されたと考えられています。元研究所長で日本交通史の大家であった黒羽兵治郎博士(1904-1993)が3冊分の翻刻を実施。その志を受け継いだ渡邊先生と本学元学長で当時本研究所長を務めていた德永光俊名誉教授を編者として、2003年、大学創設70周年記念、本研究所開所70周年記念事業として全33冊が翻刻され、4分冊の史料集として出版されています。

4分冊の史料集

渡邊先生は本学出身で黒羽先生の指導を受けました。「大学院の修士課程では、黒羽先生に古文書の読み方を叩きこまれたことが今の自分の基礎になっている」と語ります。翻刻作業は当時、大阪市史料調査会の仕事との二足のわらじでこなし、ご苦労も多かったそうですが、「黒羽先生の遺された仕事をぜひともやり遂げようと決意を新たに臨んだ」と振り返ります。

盗難の被害を保証する先進的な輸送システム

『井野口屋記録』にはどんなことが書かれているのでしょうか。渡邊先生と高木所長にそのおもしろさを伺ってみました。

井野口屋は尾張藩御用達の飛脚問屋となりますが、その条件は藩の書状や荷物の輸送を無料で行う代わりに、領内の町や村と京・大坂・江戸を結ぶ飛脚業務全般を独占するというものでした。おもしろいのはモノの輸送だけでなく、各地の事件や災害の情報を集め、藩に報告することも仕事だったこと。名古屋だけでなく京や大坂の火災、洪水など自然災害の状況も逐一報告されており、情報収集や伝達も緻密に行っていたことがわかります。

また、当時の飛脚業務のシステムも詳細に書かれています。尾張を起点に京・大坂に荷物受け取り所として「会所」を設置。1カ月に10便の往復を動かしていました。運賃は形、重さ、サイズによりきめ細かく決められており、書状を1~2通入れられる「小封」で上り15文、下り20文でした。江戸時代のかけそばが1杯16文だったことから推測すると、上りで300円から450円ぐらいになるでしょうか。また、荷物輸送には馬が運ぶ「馬荷」、人が運ぶ「歩行荷かちに」、2人以上の人足が担いだり車に乗せたりして運ぶ「釣り荷」などに分かれ、形態によっても運賃が違いました。

飛脚問屋は、「宰領さいりょう(業務の監督・世話人)」「飛脚人足にんそく(荷を運ぶ人足)」「馬借ばしゃく馬士ばし(荷を馬に乗せて運ぶ業者)」「宿場問屋(宿駅で人足や馬を手配する業者)」などの請負業者、外注業者を手配して、荷物を目的地まで届けるのが仕事です。実際に書状や荷物を運ぶことはありませんが、運送業務の一切に責任を持っていました。

「『井野口屋記録』には、盗難など被害の様子も事細かに記されています。渡し船が遭難し流された荷物が盗まれたり、盗賊の被害にあったり、ときには馬士や宰領など依頼した業者に盗まれることもよくありました。1,000両以上もの小判が盗難に遭うケースもありましたが、驚くのは井野口屋がそうした輸送品の損害をすべて弁償していることです。店や飛脚株を質に入れて弁償金を工面し、そのために経営が傾くこともあったようです。逆に言えば、保証がついているからこそ安心して現金を送ることもできたわけで、当時の物流システムがかなり進んだものであったことを表しているともいえます」と渡邊先生は説明します。

史料が伝える数々のエピソードを語ってくださる渡邊先生
時代の環境変化に対応する企業努力がありありと

地域の中での独占的な営業によって、安定した経営ができていたのかと思いきや、今でいうベンチャー的なライバルに脅かされることもあったようです。新規参入を願い出た伊勢谷喜兵衛という業者は、井野口屋の月10便が出発しない合間をぬって、5便を出発させると願い出て許可されます。これを阻止しようと動いた井野口屋は、藩に新規業者の営業停止を訴えるとともに結果的にその事業を吸収し、月に15便の飛脚業務を行うことで危機を乗り越えています。

一方、「歩行荷飛脚」という新サービスの出現にも戦々恐々としたようです。飛脚に依頼する書状や荷物は依頼主が会所まで持ってくるのが一般的でしたが、この常識を破り、客先を個別訪問して注文を取る新サービスを提供する業者が現れたのです。現在の宅配サービスの集荷と同じシステムです。これに対して井野口屋は藩に訴えて停止させるだけでなく、自らこの新サービスを実施して営業拡大を図りました。まさに、既得権益を守る必死の攻防といえます。

こうした事態は「御用飛脚の特権で藩の業務を独占して請け負う形態が、町や村の人々や商人らにとって不便になってきたことにも関係しているでしょう」と渡邊先生は分析しています。事業環境の移り変わりやその対応が手に取るようにわかるのも、長い間にわたる記録だからこそなのです。

「時の積み重なり」としての歴史、それを解きほぐす楽しみ

高木所長は、『井野口屋記録』の価値について次のように話します。
「『井野口屋記録』は通信史、情報史の史料として第一級ですが、それだけにとどまりません。たとえば、私は貨幣や金融の歴史を専門に研究していますが、金融業者がどのように現金を運んだのか、現金よりもっと手軽な為替手形はどうだったのかなど、貨幣史の観点からも非常に有益な情報を提供してくれる史料だと感じています。これはほんの一例ですが、読み方次第では非常に幅広い分野の研究史料として活用することができる奥行きのある史料なので、日本や世界の研究者がさまざまな使い方をしてくれることを期待しています。もちろん、本学の学生がこれを使って卒業論文などを書いてくれるなら、さらにうれしいですね」

史料の価値と今後の期待を話す高木所長

先生方から少し話をうかがっただけでも、江戸時代の運送業の姿がリアルに目の前に立ち現れてくるようで、歴史への親しみや興味が湧いてくるのを感じます。渡邊先生は歴史の魅力について、次のように話します。

「私たちは古い時代よりも今の時代のほうが新しくて便利で進んでいると捉えがちです。しかし、ビジネスや社会の基盤になるような考え方や制度の枠組みの中には、実は昔の時代にできているものがたくさんあるのです。郵便や物流の仕組みもその一つです。歴史は過去の一点として消え去っていくものではなく、積み重なっていくものです。その経過を解き明かしていくところに、歴史を知る楽しみがあると思います」

日本経済史研究所では、2024年10月に『井野口屋記録』に関するシンポジウムを開催する予定です。また、これを機に、『井野口屋記録』を含め本研究所所蔵の歴史資料について経済史研究や大学教育、社会教育への積極的な活用を進めていきたいと考えています。


◆◆ ご案内 ◆◆
「飛脚問屋井野口屋記録」重要文化財指定記念講演会を開催します。
 日時:2024年10月12日(土)14:00~16:00
 会場:大阪経済大学 大隅キャンパス
 開催形式:対面(定員200名)
 参加無料、事前申込制

 詳細はこちらをご確認ください
 https://www.osaka-ue.ac.jp/research/nikkeisi/news/2024newslk.html

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