大阪経済大学日本経済史研究所が保管する歴史資料「飛脚問屋井野口屋記録(ひきゃくどんやいのくちやきろく)」が、2024年8月、国の重要文化財に指定されたことから、2024年10月12日、本学で記念講演会が開催されました。公開講座「黒正塾」の一環として開催しましたが、貴重な歴史資料について専門家による解説が聞けるとあっていつもに増して市民の方々の関心も高く、会場は多くの参加者で満席になりました。
「飛脚問屋井野口屋記録」は、尾張藩の御用飛脚であった井野口屋の由緒や御用飛脚になった経緯、営業や家政などの記事が、享保8(1723)年から天保14(1843)年の長期間にわたる記録が収録された、全33冊の史料です。

会場では日本経済史研究所・高木久史所長(経済学部 教授)の挨拶に続き、トップバッターとして佛教大学・渡邊忠司名誉教授が登壇しました。近世史を専門とする歴史学者で本学の卒業生である渡邉名誉教授は、2001年から順次刊行された「飛脚問屋井野口屋記録(以下井野口屋記録)」の翻刻(原文を活字化すること)を手がけました。
渡邊名誉教授は、まず、井野口屋記録の歴史資料としての学術的な重要性に言及しました。歴史研究の進度・深度は記録の多寡に左右され、記録が多い政治史中心の研究に偏りがちであることを指摘。そのうえで、飛脚という業種の経営や営業の実態を長期間にわたって記録した本史料の希少性、また、運輸・流通史や庶民の生活史など幅広い歴史研究の関心に応える史料の価値について説明しました。
本史料の内容についても、興味深いポイントをいくつかピックアップして解説しました。もともと豊臣秀次(秀吉の甥)家臣の家柄で武士から帰農し、京都に出て剣術指南をする中で茶屋四郎次郎(徳川家康に仕えた京都の豪商)と出会って飛脚業の糸口をつかむという、井野口屋のドラマティックな系譜が浮かび上がります。営業内容についても紹介し、尾張藩の御用飛脚として藩の荷物を無料、もしくは安く運ぶ代わりに、尾張領内から京都や上方への町飛脚については営業の独占を許可してもらったことなど、知恵を絞って業務を拡大していく様子についてわかりやすく説明しました。
1カ月に10度の定期配送便を営業し、家中と町・村の荷物、お金などを集荷・配達したこと、宰領など荷物を運ぶ下請け業者に委託していたこと、道中の安全のために帯刀を許されたことなど、具体的な飛脚業務についても解説。個別訪問で荷物を集荷するという新たなスタイルの営業で、井野口屋の独占的営業を崩そうとするライバルの出現や、台風などの災害で荷物が届かない場合の弁償についてなど、飛脚問屋のリアルな経営の姿が垣間見えるエピソードの数々に参加者も興味津々でした。

次に、関西大学文学部・小倉宗教授が登壇しました。25年前、学部の卒業論文のテーマに井野口屋を選び、日本経済史研究所に通って井野口屋記録の原本にあたって論文を書いた思い出話を披露。本史料が、当時の社会や政治などさまざまな側面を見ることができる内容の豊かな貴重な史料であることを実感したと振り返りました。
講演は井野口屋記録にみる江戸時代の社会をテーマとして、京都町人であった井野口屋当主と尾張藩の出会いや身分の変遷、天保14(1843)年に記録が終わっている理由などについて紐解いていきました。本史料の記述から約20年後、文久4(1864)年に出版された「都商職街風聞」という京都ガイドブックのような史料から、井野口屋京都半左衛門が尾張藩御用飛脚を営業していたことを確認。また、代々の京都店が、尾張藩京都屋敷、尾張藩付家老の京都屋敷、尾州茶屋家京都屋敷など、尾張藩に関係のある諸屋敷近くで営業していたと指摘しました。
また、江戸時代の身分制度をめぐるエピソードも紹介しました。井野口屋は安永7(1778)年から、尾張藩付家老であった竹腰家から頼まれて京都屋敷守と京都用達を務めました。用達とは、藩と京都町奉行所や朝廷を結んでやり取りを代行する町人のことです。藩の窓口という職務柄、町人でありながら使いとして奉行所や朝廷に出向くときには、武家時代の苗字である「山田」を名乗り帯刀することが許されました。小倉教授は、江戸時代にはこのような「パートタイム武士」が増えてきていたと解説。文政11(1828)年には、7代半左衛門が、常に帯刀できる「常帯刀」になると外見がよいので竹腰家の「家来にしてほしい」と願い出ます。竹腰家は認めましたが、幕府に書面を提出する直前で武士になるという悲願は達せられませんでした。身分移動の際には、裁判や事件などとは一切関わりがないことを証明しなければならない決まりでしたが、運悪く大家として貸していた家の借家人がトラブルを起こしていたため断念せざるを得なかったといいます。
井野口屋記録はこの7代目が編纂したと考えられていますが、なぜ記録を書いたのか、その理由について小倉教授は次のような推論を展開しました。7代目の息子半助が病気になり、井野口屋は後継ぎがおらず家が断絶しかねない経営の危機に陥りました。そこで、今後の危機に備え、由緒や経緯、家業の正当性について記録に残すことにしたのでは、という興味深いストーリーです。7代目が天保10~11(1839~1840)年に死去すると、井野口屋は茶屋と相談し病気の息子を廃嫡し、茶屋の関係者を末期養子にして8代目を相続させました。こうしたゴタゴタもあって、記録が天保14(1843)年に終わっているのではないかとも指摘しました。単に飛脚問屋の営業記録だけではない本史料の多彩な側面が浮かび上がり、ますます興味が深まる内容でした。

最後に、文化庁文化財第一課歴史資料部門・水野哲雄文化財調査官が登壇しました。重要文化財指定の根拠となる文化財保護法の規定について、また、1975年に加わった歴史資料というジャンルについて解説。そのうえで、指定調査で確認した井野口屋記録原本の特徴について語りました。
全33巻あるなかで、表紙に使われている用紙が2種類あると指摘。雷文と雲文と呼ばれる2種類の模様の紙が使い分けられており、いずれも江戸時代後期の装丁だと考えられていますが、その使い分けの意図まではわかっていません。
ある巻には、本文記事に関係する原文書が挟み込まれているのが発見されました。小倉教授の話に出てきた尾張藩付家老、竹腰家の屋敷の所有者改めに関する内容の挟み込み文書で、井野口屋が沽券状(不動産売買の証文)の輸送・管理に関わったことを示唆しています。
史料がどうつくられたのかを判断する上で重要な手がかりとなるのが筆跡についても解説しました。井野口屋記録には少なくとも3名の筆者がいますが、1巻から31巻までの目録と本文など、多くの部分が同一の筆跡とのこと。これらの巻が整えられたのは天保3(1832)年以降で、7代半左衛門が当主であった時代と考えられると指摘します。
書写の誤りが見つかったという興味深いトピックも提供されました。たとえば同一の本文が重複されている箇所があり、ここから史料が一から書かれたものでなく、前提となる史料があってそれをまとめて作られたものと推測されるのです。
また、各巻に収録されている記事の年代についても面白い解説がありました。各巻の記事の年代にはばらつきがありますが、何年までの記事が収録されているかを調べると、宝暦8(1758)年、天明7(1787)年などいくつかの区切りとなっている年があることが見えてきたといいます。宝暦8年には中興の祖であった五代半左衛門が死去しており、それに伴う山田家の由緒確認が求められたかもしれません。天明7年は京都大火の年で、もしかしたら証拠書類が失われ災害後に文書を整理し直したとも考えられます。こうした記録編纂のきっかけとなったできごとの可能性があるという解説を通して、歴史資料を読み解く楽しさ、深みに引き込まれました。
井野口屋については尾張藩側からの記録が徳川林政史研究所所蔵の史料に残されており、水野調査官はそれを引きながら井野口屋の消息についても話題にしました。文政5(1822)年に交通・輸送体系が改正されて御用荷物に関する特権が解消されたことも一因となって、井野口屋の営業は衰退。天保6(1835)年に一部の御用荷物輸送が復活したことから幕末まで営業しますが、明治2(1869)年には尾張藩の制度改革によって上方筋の御用荷物が藩直営に変更。井野口屋京都店は尾張藩の新たな運輸制度に吸収されました。

講演の後、各登壇者に高木所長を交えた4名によるパネルディスカッションが開催されました。本史料成立の背景についてはまだまだ謎が多く解明に向けた研究が重要であること、本史料には経済史、陸上交通史、都市史、身分論などさまざまな分野の研究展望が開けていること、また、史料の収集・保管、研究という実際の活動の蓄積が重要文化財指定につながっていることなどが指摘されました。
今回のシンポジウムでは、さまざまな観点から井野口屋記録についての研究・調査の成果がわかりやすく語られ、その価値や重要文化財に指定された意義について改めて思い至る機会になりました。会場では熱心にメモされる姿があちこちに見られ、みなさんの興味や好奇心の高さを実感することができました。本学では史料の収集・研究活動を継続的に進めていくとともに、その成果を広く市民の皆さんと共有する取り組みを今後も積極的に行っていきたいと思います。
