淡々おやじのインドシナ半島紀行


中国・ラオス・タイ いけいけどんどんの巻き


                          2001年9月18日〜28日

                                    ハワー・アシュラム

ラオス北部の町・ムアンシンの朝市場


ここ何年かのインドシナ半島の旅は正直いって気合の入ってない、数稼ぎの旅であったことは事実である。それは、毎回出している報告書にも反映されているようだ。
おまけにデジタルカメラなんぞが出てしまったお陰で報告書は手抜きの一途をたどってしまった。

そんな中、2001年7月に添乗員として案内したラオスの旅で、お客さんの一人が報告書(超限定出版)を出した。なんと、近頃にしては珍しい全ページ文字版であった。しかし、それは文章の持つチカラ強さをまざまざと見せつけられるものであった。

ひょっとしてパソコンが使えなくて、ワープロで打ったため、画像処理ができなかったのかものしれないのだが、それにしても力を感じる一作であった。

写真が伝える情報なんてーのはしょせん見る人がもっている知識や経験の中でだけで咀嚼されるものであって、往々にしてその国への偏見や思い込みに満ち満ちている場合が多いものだ。

こんな反省の中、今回の旅は、そんな惰性からの脱出であったので、報告書についても文章で勝負をしたい、と考えたのである。決意の旅は2001年9月18日から29日の朝まで展開された。

訪れた国はインドシナ半島の付け根の部分、中国、ラオス,タイである。

ルートは中国は雲南省の省都・昆明からラオスに入り、国北部を横断してメコン流域に至り、船で南下してタイ北部に至る計画である。これらの国を過去の経験で語るならば、おそるべし中国・漢民族、なにもない物があるラオス、やすらぎの国タイ、とでも言っておこうか。

予算は例によって10万円である。(結果としては2万円足が出ました。)

中国南部へ片道切符で飛行機で入り、タイから片道切符で日本に帰っていたのでは財布が持たない。飛行機は往復チケットより片道チケットの方が高い世界だ。そんな訳で、とりあえずはバンコク往復の安チケットを買った。48,000円だ。

夏のピーク料金に比べれば安いが20日以降になれば、あと5,000円は下がったのだが、待ちきれなかった。なんせ我社の夏休賞味期限は9月末日までである。

いったんバンコクに出て、そこから中国を目指して同じ航空会社で正規チケットを買った。正規料金とはいうものの、業界用語で切り込みと言う割引制度を利用した。そのお影で2時間のフライトチケットを27,000円でゲットしたのだった。

9月18日

日付が変わった1時すぎ、我々3人、妻と私の職場の友人・O君は関空に集合した。 フライトはいつものタイ航空の深夜便だ。スッチーに缶ビールを一本おねだりして毛布を被ってうとうとすればもうバンコク、ドンムアン空港だ。

 さー戦い、のはずであるが、肝心の中国・昆明行きは10時50分発なのだ。約5時間待ちである。妻は機内で一緒になった、ベトナムへ行く職場の同僚と雑談で時間を潰している。彼女らは6時間待ちのトランジットだそうだ。うー、おそるべし深夜便。

同行のO君は免税店をうろうろ。でもしょせん金がないので椅子に座ってうたた寝と読書のカクテルになっている。

おとーさんは最初からうたた寝と文庫本とビールであるから、カクテルとビールのチャンポンだ。ビールは勿論、タイのビール、シンハである。

搭乗は6番ゲートで始められたが、待合室のほとんどが中国人のパックツアー客である。おそらく、シンガポール,マレーシア,タイの華僑であろう。それにしても、彼らのこの騒がしさはなんなんだ・・・
2時間ほどのフライトでTG612便は定刻に中国、雲南省の省都,昆明に着いた。昆明は雲南省の省都であり、人口は200万。約

(空港から昆明市内へ)

 

2000mの高地にあり東南アジアのエリアにあるにもかかわらず一年中気候が穏やかで、「春城」と呼ばれているところである。

おとーさんは1995年12月に一度訪れた事がある。その時は大阪から直接入り、西双版納を経てミャンマーへ違法で日帰りツアーに入らせてもらったことがある。あれから6年。中国は変わった。恐るべきスピードで変わっていっている。
そんな激変の昆明国際空港に降り立った。
きれいになった空港に驚いてはいられない。
荷物は例によって機内持ち込みをしていた。
入国審査が終われば即行動だ。(なんと電脳処理になっていた!)
おー、なんと自動両替機まで!
中国元(1元≒15円)に両替をしてタクシーでラオス領事館の入っている茶華賓館へ向かった。

今回の目的は中国から陸路でラオスというのがひとつのメインメニューになっていた。ラオスはビザが必要な国である。日本で取得するには旅行代理店を通じて、ある程度のスケジュールを組み、ホテル等の予約も入れなければビザ取得ができない仕組みになっている。さらにビザ手数料も1万円以上するものと思われる。
悲しいかな、そんなシステムに我々貧乏人旅行者が、はいそーですか、とは返事ができない。

ビザ取得にはアライバルビザというシステムが国によってはある。ラオスについては首都ビエンチャン空港に降り立った場合とメコン川をまたぐ友好大橋の所に限ってそれが可能だ。それ以外の場所については予め、もよりの大使館もしくは領事館において申請取得をしなければならない訳だ。

そんな訳で、今われわれはタクシーを飛ばして茶華賓館内にあるラオス領事館に向かっているのだ。領事館の受付は4時までである。だから、関空で荷物を預けないで、機内持ちこみにしていたのだ。バゲージピックアップの時間節約のためなのだが、苦節20年貧乏バックパッカーのこの技に、酔ううおとーさんであった。

ちいさな国のちいさな領事館はホテル一階の奥のちいさな部屋にあった。


受付のおっちゃんは大柄な人だった。
3時30分の到着。
滑りこみセーフ!

カウンターがあり、ビザの申請用紙を貰い、超特急ビザ発給の値段を聞く。

担当者は少し間をもって小さな声で答えてくれた。
52米$で約15分で出来ると。
ラッキー!である。

返答に若干のタイムラグがあったのは50$プラス2$のポケットマネーのせいか                    な?とおもいつつ、3人並んで急いで申請書に記入をし、写真をペタンと貼って、はい! 事前情報では、前日の午前申請,翌日午後受け取りで40$と聞いていたので、この価格は極めてリーズナブルな値段である。
一気に二日間浮くわけだから・・・・我々タイトスケジュールツーリストにはありがたいお話である。2ドルぐらいでしたら、どーぞどーぞ・・・

2週間のツーリストビザを無事にパスポートに押してもらい、さてお次は宿の確保だ。領事館の入っているここ茶華賓館はバックパッカーには結構人気のある中級ホテルだ。早速、チェックインカウンターにいって値段を聞いてみる。

3人房(3人部屋)、温水シャワー、トイレ付きで160元(2,400円)である。
部屋のチェックをした結果、この都市部で一人800円、なおかつ応接間付き。
決定!

部屋で荷物を解いたのは5時近かった。今日の行動は日付が変わってすぐに関空を飛び立ち、バンコクに入り、そしてここ昆明へ。さすがにビールを飲んですぐにひと眠りしたいところである。

しかし、個人旅行にはそれが許されないのである。
そう、明日の用意があるのだ。

ラオス人民民主共和国の可及的速やかな事務処理のお影で南の国境に向けて駒を進めることができる。次の移動目的地は西双版納(シーサンパンナ)というところだ。
タイ族が多く住むエリアで、シーサンパンナとはタイ語で12の村のある所で、それぞれの村には1000枚の稲田がある、という意味だそうだ。
因みにタイ語で言うと、シップ・ソン・パン・ナーとなる。
 
うーむ、苦節20年、アジアの旅。
おとーさんは、この知識にまたまた酔うのであった。

西双版納へは約700キロあるのだが、1995年にこの間をバスで移動したことがある。通常でも24時間の旅程であるところを、バスの故障や道路の崩壊で44時間か かった経験がある。バスで44時間は修行の世界である。今回のメーンテーマである中国からラオスへの陸路通過を考えると、ここで精神力と体力を使いたくなかった。   

いい訳は長くなったが、そんな訳でホテルのすぐそばにある旅行代理店に出向いた。

昆明〜西双版納間の飛行機はデイリーで10便ほど飛んでいる区間だ。しかしながら、西双版納というところはおよそ中国らしくない中国、南の果て、観光地と しても大変に人気があり、旅行社が席を握っており、チケット確保の難しい区間である。

そんな予備学習の中、メモ用紙に希望項目を漢字で書いて係員に渡す。
そうなんです、電脳画面で彼女は検索を始めた。
5年前の中国では考えられない光景である。

中国で切符を買うことの苦労は、バックパッカー仲間の間では定説になっていたのだが。あんと、「明日は全便満席ですが、明後日なら昼便があります」との答えがすぐに帰ってきた。
明日にバスで出ても到着は明後日だ。
よーし、明日は昆明観光で一日楽しもう。

520元(7,800円)でチケットを手にいれ、西双版納への日程は固定できた。
これは個人旅行にとって大事な作業である。

夕食は近くの食堂に赴き、この地方の名物、土砂鍋とバンバンジーと麺を注文する。生憎この店にはビールがなかったので、表に出てそれらしい店に入って缶ビ―ルを買い求めた。

「おばちゃん、缶ビールなんぼ・・・」
たしか、サーテイファイブと言ったような気がした。
(おばちゃんが英語しゃべるわけないやろ)
指を3本だして、サー・・・・なんたら、と言ったのである。

所詮アジアの国でビールなんてのは庶民からすれば高い飲み物なのだが、そんなに値幅があるわけではない、という気持ちと、バーツ経済圏をうろうろしすぎた勢で、おれの頭は35×3円とはじいて、ま、そんなもんか、と思って食堂にとって帰った。

物事が順調に進んだときは必ず、悪魔が柱の影から微笑むものだ・・・
とにかくビールをシュワ―プと飲みたかった。

「おい、このビール35や。すぐそこの店で売ってるでー」とO君に告げると、
しばらくして彼もいそいそとビール片手に帰ってきた。
やっぱり一日を目一杯働いた後のビールはうまい!
かんぱーい。



二口ほど飲んで、・・・・・ん?ー
なんで35やねん。
35元いうたら、520円やんけ!
えー・・・・!!

絶句のあと沈黙がしばらく続いた。
その後に、鬼のような妻のなじりが続く。

「あんた、なんぼ酒代は自分の小遣いやゆーても、あほちゃうか?」
「うるさーい!」

いやいや夫婦喧嘩をしている場合ではない。
冷静に考えてみた。

アジアの旅行が長い。でも中国は漢民族が嫌いなのでここんところ敬遠していた。
なんといってもバーツ経済圏が圧倒的に居心地がいい。
なんと、ビールを買ってバーツレートを掛けていたのだ。
O君は、まだ慣れていなくて俺の情報を鵜呑みだ。
いやー!面目無い。

ことのほかほろ苦いビールを飲んで、食事のお勘定は全部で57元であった。
ふー・・・・・・

9月19日

7時起床。
あわててホテルを飛びだし、昆明火車駅(汽車)にタクシーで向かう。
メータータクシーが大勢を占めているので気分的に楽だ。(10元)

本日の目的地、石林(イーリン)までの特別列車の票(切符)を手に入れた。これも窓口で電算処理であったが、座席票は予めプリントアウトされた座席番号が印刷された紙を定規で切って、切符の裏に糊で貼ってくれた。(25元)
うーっむ、おそるべし中国。


出発は8時30分。
朝飯を駅前の食堂ですます。
ラーメンが7元であった。

スープはうまいが、麺には繊細さがなく、正味、小麦を引き伸ばしたものである。漢民族はこんな麺を朝から、日本流でいえば3玉くらいぺろりと平らげ、公衆厠で大きな糞をして国家をワッセワッセと建設していくのだ。
うーむ、おそるべし漢民族。

街並みに特段の変化はないものの、いつもながら感心するのは道路にゴミが落ちていないことである。流石に社会主義国、ゴミを捨てる者、タンをはく者、清掃をする者、清掃がすんだかどうかチェックする者、と役割分担がゆき届いてているのであった・・・・

汽車は非常にきれいな車両でとても中国とは思えない。
でも、各シートの足元には大きなゴミ箱が置いてあり、前の席がリクライニングしてくれば、ほとんど足元は動けない状態になるのであった。しかも、席は進行方向に向かって反対にセットされている。

回転式シートかとレバーを探すがない。
これじゃ景色が後ろから前に飛んで、酔ってしまうがな。
 
ここ数年、中国は高速道路と新幹線の建設に力を注いでいる。
ただ、新幹線とはいっても在来線が既に広軌規格なので、新線は在来線に沿ってひたすらまっすぐ線形の線路をひいている、といった感じである。

結果として、在来線が60キロで走っていたところを120キロで走れるようになった、といった具合である。でも、すごいよね、その建設のスピードが・・・・
列車は100キロほど離れた石林に向けて走りだした。車窓の右左に在来線がうねうねと走っている。例によって車内音楽が流れだしたのだが、なんとジャズのスタンダードナンバーなんかが流れているではないか。あの中国は何処へいった?

在来線は昆河線といって昆明から河口というベトナム国境に向けて走っている路線で、週に何度かはベトナム・ハノイまでの国際列車が走っている。沿線も渓谷沿いの景勝地をいくつか持っており、いつかは乗ってみたい路線である。

30分ほど走ったころ、やおら少数民族、ぺー族の衣装を着た娘さん二人を引き連れて、ハンドマイクをもったニーチャンが車両の端に現れた。さー、それから喋るは喋るは、同じ車両にいた欧米人の団体客の表情は明らかにブ―イングである。

とにかく立て板に水のごとく中国語で延々としゃべるのである。
「こんだけ喋れたら、こいつはわが社で昇格試験一発合格やなー」、とO君が唸る。
要は、本日の目的地の石林での一日ツアーの勧誘である。

中国の観光地は確かにスケールが大きい。目的の駅に降りたからといって、奈良の大仏さんを見に行くのとわけがちがう。ここはひとつ、昼食付きのパックツアーに申し込むか、ということで件のニーチャンと横板にガムのような英語で交渉がはじまった。

「日本語とまでは言わんが、せめて英語が喋れるガイドをつけてくれるんやろな!」と彼に英語で質問すると、彼は「お客さん、日本語喋ることできますか?」と日本語で聞いてきた。
 
うむー、おそるべし漢民族

結局、我々は250元(3750円)で大石林、小石林、バス、昼食付き一日ツアーを申し込んだ。10時10分に着いた石林の駅頭にはマイクロバスが既に待機していた。中国人10人ほどと日本人3人の一団で車は最初の景勝地、小石林に向かった。

いわゆるカルスト地形であるが流石にスケールは大きい。世界遺産にもなっている、まさに石の林、長年に渡って雨水や風によって彫刻されたモニュメントの森である。散々に石の迷路を歩かされて、今度は地下の鍾乳洞である。

さて、我々日本人3人には専属の案内小姐(嬢)がついていた。


これが英語を話す案内嬢であったのだが、英語を話すではなく、単語を発するだけの案内嬢であった。

虎の形に似た岩のところにくれば、「タイガー」
象の形に似たところにくれば「エレファント」だけであった。
うーむ、おそるべし漢民族。
いやいや彼女は少数民族の娘だった・・・ 
   
昼食は大石林エリアのホテルで摂った。
丸テーブルで中国人二組の夫婦と同席ではじまった。
料理は大皿に盛った料理が10皿ほど出てきた。
ついでにビンビール大を頼んだのだが、代金は8元(120円)である。

昨夜の缶ビールの35元はなんだったんだ!
怒りがこみあげてくるおとーさんとO君であった。
そして、妻はまたまた昨夜の心の傷口に塩をすりこむのであった。
おそるべし日本人の妻。

昼からの大石林は小石林をさらにスケールアップしたものであったが、ここは一大観光地となっており、なんやらテーマパークの中に入ったようで、各社入り乱れた団体誘導旗の間をすり抜けながらの歩行となった。
 
帰路は再び16時30分発の石林特速で帰ることにした。(硬座20元)
要は、朝乗ってきた列車がそのまま駅で待っていたわけだ。
そして、「ふん、どうだい!帰りは景色が前から後ろへいくやろ!」と言わんばかりにそのままの方向で列車はホームに留まっていた。

夕刻に到着した昆明駅からは10元のタクシー代を払ってホテルへ。
一人旅ではなかなか出来ない移動方法だ。

一休みして、大通りを挟んで斜め向かいの実験飯店という店で夕食をとった。
ガイドブックにも載っている有名な大衆食堂である。
焼飯,チキンスープ、野菜いため、酢豚,ビール大2本で35元(525円)。
・・・・・・・・。
まだ妻からの訴状を読んでいませんので、コメントは差し控えます。

9月20日

夜来の雨と雷は収まったようだ。
外気はTシャーツでは少し寒いくらいだ。

ホテル内のグリルで朝食バイキング(10元)。
これはお値打ちである。
もちろん昼食用のバナナも戴いた。
空港まではタクシーで20元。
メータータクシーは本当に精神衛生上いいものである。
お約束の空港建設協力金50元を支払い、チェックインはいままでの中国では考えられないようなスムーズさで進んだ。
待合室もモダンな雰囲気である。

中国雲南航空公司のXW225便は雷雨のため、約1時間遅れで昆明国際空港を13時30分に飛び立ち、水平飛行を10分ほどしたかとおもうとメコン河を眼下に見ながら下降体勢に入っていった。

西双版納の空港は、昆明のどんよりとした曇り空とは一転して初夏の日差しを充分に感じるものであった。空港から市内に向かう道路の両側の街路樹も蘇鉄や椰子の木が並んでおり、南国ムードはたっぷりである。

真っ白なレースの日傘でもさし、スカートをはいた女性が歩いていれば、ここを中国と思う人はいないであろう。

ホテルは以前にも宿泊した記憶のある版納賓館にチェックインをした。
大きな敷地内に宿泊棟が点在したレイアウトは5年前と少しも変わっていないことがなぜかうれしいおとーさんであった。

(ホテル内の遊歩道)

 


宿泊棟は若干古い建物で、宿代は、3ベッド、太陽熱温水シャワー、トイレ、香取線香、扇風機付きで60元(900円)である。
ひとり300円である。
ぜいたくは言えない。 

一休みの後,明日のバスチケットの手配にバスターミナルに向かう。
  
なんと、バスについても電算処理でチケットの購入できた。
ラオス国境に向かう交通の要衝である孟臘(モンラー)まで29元(435円)である。
 
同じ宿泊棟には長期旅行者の日本人が5人ばかしいた。
しばらくしてその中の長老格の和田さんより夕食会の提案があり、夕立の始まった街中に飛びだした。結局8人で丸テーブルを囲み、楽しい夕食と情報交換が行われた。 

 ゲストハウスでの情報交換は大変に重要なことで、極端に言えばガイドブック無しで地図だけの旅を十分に可能にしてくれる。

雨あがり、テラスでコーヒーを沸かし、ジャズを聞く。
至福の一時である。

9月21日

5時30分起床で、6時にチェックアウトをしてバスターミナルに向かう。

昨夜、夕食を共にした竹田(女性・35才くらい)さんもいっしょだ。
彼女は中国で2ヶ月をすごし、いまからインドシナ半島を南下するそうだ。
そう、言えば昨夜のメンバーは日本を出て2年とか、1年のうち半年は海外ですねん、といった猛者ばかりだった
電算処理された切符を片手にマイクロバスに乗りこんだが、一向に出発する気配がない。どうも、客席が埋まらないので出発しないようだ。くっきりとプリントアウトされた7時の出発時刻はなんなんだ!

結局1時間ほど遅れてバスはターミナルを出た。
朝から降ったりやんだりの雨はまだ続いている。
遅れた出発にもかかわらずバスは市内の要所要所でクラクションを鳴らしながら徐行運転で、客を探しての走行だ。

(辺境の地の乗り物・耕運機)

 

市外の東側を流れるメコンを渡り、その後しばらくメコンを右手に見ての走行となった。徐々に山間部に入っていったが、運転手はひっきりなしに窓からタンをはき、これまたひっきりなしに携帯電話をかけている。うー、おそるべし漢民族

日本では考えられないような辺境の地であるのに、圏内なのである。

圏内である表示は「可」となっているのか「通」となるのかは知らないが。もしアンテナマークならば何本くらい立っているのか、気になるおとーさんであった。

車窓にはやたらと、西双版納自然国家保護区の看板表示があったが、170キロ4時間半の乗車で少なくと、自然以外のところはなかった。

孟臘(モンラー)の町は三方をラオスに囲まれ、西でミャンマーと接している。地理的には辺境の地ではあるがメーンストリートが一本ガ―ンと走っており、4階建のビルなんかも並んでいる。
当初の計画ではこの町で一泊を予定していたが、なにもない町である。
この時間帯ならもうひと駒進めるかもしれない。

そんな気持ちでバスを降りると、「だんな―、磨?(モーハン)行きのバス停まで・・・」と軽四ワンボックスのニーチャンが声をかけてきた。
そうか、磨?(ラオス国境の町)へのバスは違うターミナルから出るんやな。
とりあえずは昼飯だ。
ビールも飲んでひと心地。
あと60キロや。
もうひと駒がんばろうか。

という訳でバス停にむかって、4人は荷物を担いでワッセワッセと歩き始めた。
我々の歩きにあわせて軽のワンボックスがしきりに付いてくる。
バス停までのタクシーらしい。
「おっちゃんなんぼや?」 (多少銭?)
「12元」
「あほかー」

さっきのバスは4時間半乗って29元やで。
なんで町の端まで行くのに一人12元やねん。
ほっといてくれ、歩くわ!

しかし、何度振り払っても彼はついてくる。
しつこい奴だ、とにらみつけると彼はぼろぼろのボール紙を我々に示した。
漢字で磨?と書いてあるではないか。

ん?
おっさん、はよそれを言わんかいな。
客集めに町内をまわっていたんかいな。

人間の誤解というのはこんなところから生まれ、それが民族間の争いに・・・
そして、それが核戦争に発展・・・・
車の客引きが原因で核戦争!
そんなやつ、おらーんやろ。
 
結局、その軽ワンボックスに乗ってバス停に向かう。
バス停まではものの100mほどであった。さ、そこで降りようとすると、おっさんはそのままでいい、という。バスが何台かとまっているので、あれとちがうんか、と指差すと、なんとこの軽四だという。
んーむ、おそるべし漢民族。
参りました!

軽四のワンボックスは前2、中3,後2の座席で生意気にも6人もの客を乗せて出発した。道のりは60キロであるが、道筋はいままでの山間部とはうって変わって平坦な所も多くあり、結構頑張って1時間12分で国境の町、磨?(モーハン)に到着したのだった。

一本の街道筋に民家や商店などが貼りついた、たかだか300mほどの明るい浅い谷あいの町である。若者は道端にしつらえたビリヤード台で玉突きに興じていた。国境の町の緊張感もなく、ここではニューヨークのテロ事件も関係がなく、中国国旗がはためいていた。

宿は流石に国境、物と人の往来があるせいか、町のスケールの割には何軒かあった。西陽のきつくない宿を探し、3人房で50元を40元(600円)にまけさせて一日の行動を終えた。

 だだっ広い部屋でが床はピータイル、トイレ水洗、水シャワーで一人200円なら満足。
夕食は近くのありきたりの食堂で済ました。
食後、到着したときに目に付いていた按摩屋にO君が行くと言った。

「どないやろ師匠、大丈夫かな?」
「別にややこしそうでもないし、タイにかっていっぱいマッサージはあるしな・・・・」
「ほな、ちょっと行ってきますわー」

小1時間ほどして彼は帰ってきた。

「どうやった?」
「いやー、どないもこないも・・・・」

実は昼間の按摩屋はなんの変哲もないただの按摩屋だった。しかし、夕食後の暗がりで見る按摩屋はこの山中の辺境の地にしては、妙になまめかしいピンク系統の灯りをつけ、表通りに面して鏡台とソファーを置き、女の子達が長い髪の毛をしきりに磨いでいたのである。
 一瞬、?とは思ったのだが、O君はわしの曖昧な返事でさっさと店に入ってしまったのだ。宿に帰るまでに良く見ればその手の店が多くあるではないか。こんな小さな集落で村人に肩こり症の人がそれほど多いとは思えない。

そうか、ほぐすのは下半身や!
缶ビールに続く失態であった。

国境の町は多く知っている。
タイではマレーシヤ国境のハジャイ。ここはイスラムの関係でマレーシヤ人が按摩をしにくる。カンボジア国境のアラヤンプラテート。ここの按摩屋はタイ人の成金が訪れてすさまじい。北朝鮮国境の町、中国の丹東の町。この町は北朝鮮の娘達が・・・、磨?も娘達はミャンマーやラオスから来ているのだろう。宗教上の理由も含めて、結局は富める者が貧しい者を飲み込む図式だ。

しかし、こんなに大ぴっらな形で店を出しているのを見たのは始めてである。
うーむ、おそるべし漢民族。

そんなわけで、O君は店に入ったとたん、女の子のマッサージを受けたのだが、彼女らは本格的にマッサージを習ったわけでもなく、下半身売りこみのため、しきりに下半身すりすり攻撃をしかけてきたそうな。

うぶなO君は、やっと事の重大さに気づき必死で帰ってきたわけである。
紅潮した彼の顔を見てみんな大笑いの一幕であった。

 
9月22日

国境通過の日である。
ゲートは宿から100mほど南に上ったところにある。
8時きっかりに国防辺境管理所のセレモニーが始まった。
国旗掲揚と国歌斉唱である。

おじさんは中国国歌が分からないから、とりあえず国旗を見ながら君が代をつぶやいた。出国手続きは簡単なものであった。しかし、手持ちの中国元からラオスKP(キップ)への両替は二人にとっては大変な作業であった。

おじさんは出国手続きをしているのに、二人はまだ沿道の露天商と両替のやりとりでこてこてになっている。昨夜の内に1元は15円で1000Kipぐらいやな、と踏んでいた。今日の連中のレートは、聞くと1000から1200くらいであった。
おじさんは、さっさと手持ちの250元を1100のレートでKipに変えて275,000Kipを手にしていた。慣れぬ二人はその札の束に圧倒されて、さー数えるのに大変であった。

札は一万Kip毎にゴム輪で束ねられている。券種はいろいろである。それをはずしていちいち数えていたら、国境のゲートが閉まってしまうぐらいに時間がかかる。たしかに束の中には1000Kip札などを適当に1枚抜いたりしてごまかしているようだ。

でも1000Kipは15円である。
27束の全てに1枚1000Kipが足りないとしても400円である。
そんなことに神経を使うよりも、1150くらのレートで交換する交渉に力を注ぐ方がはるかに効率的なんやけどな。

ま、とやかくいってもパニックなのである。
こればっかりは慣れである。

これで中国を後にするわけであるが、過去に何回か訪れた中国は、疲れとあきれかえりで、1995年を最後に久しく来ていなかった。
そんな中国の今回の感想は、
IT関連では日本の100倍の速さで・・・・
都市のインフラ整備は日本の10倍の速さで・・・・
人民の道徳教育は日本の5分の1の速さで進んでいる、
そんな感想をもったおとーさんであった。

(中国国境を越える)



 さーて、ゲートをくぐれば緩衝地帯である。
ちいさな峠を挟んで2キロほどあるそうだ。
さっそく国境間連絡輸送システム、要するに軽トラックがまっていた。
料金は2000Kip(約30円)である。

Kipを日本円に直すには結構熟練を要す。
いかんせん1Kipが0.016円なのである。       
たとえば、「はい、1000Kip」といわれてもなかなか日本円換算は手間取るのである。    しかも、これから始まるラオス紀行の中ではほとんどが万単位のやりとりになってくるのでなおさらである。

今年の7月に3人のお客さんをつれてラオス南部の旅をした。  
その内の一人で非常に経済に才長けた人がいた。有り体に言えば、大阪弁でいうところのしぶちんである。実は私も何回にも渡って来ているラオスであるが、結構このレートにてこずっていた。

そのツアーの最終日に件の客ははたと手をたたいて。
「1000Kipは5バーツや!」と叫んだ。 

最初はなんのことか分からなかったが、よく考えてみれば、我々は必死でKipを悩ましい小数点の桁をかいくぐって一気に日本円に割り戻し計算をしようとしていた。でもバーツ経済圏に住むラオスの人々にとっては日本円への換算よりもバーツへの換算をしておおよそのインドシナ半島での貨幣価値を把握すればよいのである。

1000Kipは5バーツ。
1バーツは約3円。
公門式の塾通いもいらない簡単な図式が出来あがるのである。
一桁の掛け算は楽!
これだけ。

さすがお客さんは大阪の有名な経済大学を出てはるだけあって、すばらしかった。
ただ、旅の最終日ではなく初日にこの格調高い論文を発表してほしかったなー、と思う添乗員であった。

閑話休題。

緩衝地帯は約10分ほどで通り抜け、なんとなくなつかしい風景がひろがってきた。
ラオスである。

イミグレーションで入国手続きをして2週間滞在のスタンプを押してもらう。
ここボーテンの町、いや村は約30戸ぐらいだろうか、延長にして約200m位の長さで住居が固まっている村だ。良く西部劇で出てくる赤茶けた地道に風が舞い、馬や馬車が行き来し、居酒屋の一角では昼間から男どもがトランプや酒に興じている景色だ。

あのギギ―となる居酒屋の扉がわらふき屋根のオープンテラスで、馬が耕運機で、ここが西部ではなくまぎれもなくアジアであるだけある。

イミグレーションからバス停まではゆるいくだり勾配で約200mほどであった。
赤土の広場に唐突に10m四方ほどの東屋があった。バス停である。

近くにある店屋にいって最寄の町であるルアムナムタ―へのバスの時刻を聞くも、もうひとつ要領を得ない。要は来るときには来るやろ。あんたらなんでそんなに時間を気にしてるの・・・、てな感じである。このやり取りはまわりの景色が一層われわれに追い討ちをかけてきたのであった。

(バス停の東屋)

あわててもしょうがない。
郷にいれば郷に従えである。

近くの店で冷えたビンビールを買ってきて、東屋の下でどっかとあぐらをかいて風に吹かれながら戴く久しぶりのビアラオ(ラオス唯一の国産ビール)は至福の一時であった。

なにもないものがある国、ラオス。時間のとまった国、ラオスである。
バスというよりもトラックは10時にどこからともなく現れた。
丁度2トントラックのサイズで、荷台には幌がついており、両側にA4サイズの短辺の幅しかない板の長椅子がセットしてあった。

ラオス名物のトラックバスである。
我々のイライラをよそにバストラックは11時に出発した。
3時間待ちであった。

道路はラオスを南北に貫く幹線国道13号なので舗装こそしていないが路面状況はよかった。でも時速は20キロそこそこか・・・・37キロ離れたルアムナムタ―へは1時間半(10000Kip)で到着した。

ここはルアンナムター県の県都で、モン族やアカ族などの少数民族が多い町であり、郊外には飛行場もある。しかし、飛行機はスケジュール通りに飛ばないので有名なところでもある。

本日はここまでかな、と考えていたのだが町はずれのバス広場で次の目的地のムアンシン行きのバス?があることがわかった。

バスの見える店で昼食をとる。
ビンビール6000Kip、フランスパンのサンドが4000Kipである。
ここラオスは一時期フランスのコロニーになっていたのでフランスパンのおいしさには定評のあるところである。


トラックバスは14時に出発した。

この時期はまだ雨季が終わっていないので、今回の計画で一番心配をしたのは道路状況である。               しかし、道すがらの状況を見る限りでは心配なさそうだ。
山々はうっそうとした緑でところどころに焼畑の跡であろうか、陸稲や麦、桑などが植えられ、雲のあいだから差し込むお日様に輝いていた。

どこからどこへ行くのだろうか、時折すれ違う村人の子供や女たちはマキを、男達は肩に鉄砲をもった姿が目についた。目をこらせば山あいの所どころに竹で編んだだけの粗末な高床式の家がある。もちろん電気も水道もない。日の出と共に起き、日の入りと共に寝る生活だ。

夜といえば満点の星空と焼き畑の残り火ぐらいしか見えない。

時折こうして通過する、眼鏡をかけ、靴を履いて、カメラをもって、時計をして、ガイドブックを持っている旅行者は、彼らの目から見ればどういうふうに写っているのだろうか?

いすれにしても、双方がサファリパーク状態なのである。
一カ所のチェックポストを経て60キロをトラックバスは2時間半で走ってくれた。
ラオスのトラックバスはツーリストの間では悪路とともに有名である。
しかし、今日走っている感じでは道の手入れは、山間部の村人にとっては唯一の物流パイプであるためか、谷水や路肩の土木施行的な整備こそはされていないが、路面については結構手入れがされていた。
悪路の評判は、路面ではなくトラックの荷台に載っているがための揺れである。トラックのサスペンションで一日中揺すられたら、だれでも参りまっせ!

ムアンシンには16時0分に到着した。

山間部に開けた盆地に位置し、見渡すかぎりライスフィールド(田圃)である。
最近、この町?は少数民族の集まる、ラオス北部の町として有名になり、いまでは20件ほどのゲストハウスがメーンストリートに軒を並べている。

しかし、それにしても小さな町だ。
町の中心部はマーケットであり、バス停があり、ぬかるんだ地道の広場があり、ゴミがあり、豚の散歩場所でもある。さきほど通過したラムナタールの町の方が規模が大きいのである。


それにも関わらず世界地図でインドシナ半島全体を見渡せるくらいのスケールでも、ラオス北部地帯では首都のビエンチャン、世界遺産の町ブランプラパンとともに載っているのである。

多分、地図の会社から各国の機関に都市名記載についての希望依頼があって、ラオス当局としては御前会議を開き、やむにやまれず観光喚起目的でこの村をリストに入れたとしか思えない。

なにもない物がある国ラオスである。

ゲストハウスは3軒ほどあたって、ちいさなマーケットに近いゲストハウスに決めた。
宿の名前は無い。
宿帳もなかった。
ようするにもぐりだ。

今日、宿を決める際にふと思ったことがある。
我々が宿決める際には、まず値段を聞いて、それから部屋を見せてもらって決める。
この手順については問題がないのだが、問題は部屋の明るさについて、地元の人と我々の間に価値観の相違があることだ。

地元の人は明るい部屋より日当たりの悪いところの方が良。
我々は日当たりの悪い部屋より明るい部屋の方が良なのである。これは地元の人間に言わせれば、明るい部屋は日当たりがよく、暑いことによる。

多分、ここの不動産屋の広告なんぞは、「日当たり不良、西北の角地、好評分譲中」
なんて出てるんだろうね。

そんな訳で、本日の宿は、我々日本人の価値観で選んでしまった。
すなわち、二階建てブロック作りの家屋の屋上の一角に4m四方ぐらいで増築をした部屋であった。
確かに、三方が窓で明るい!屋上で湿気がない!見晴らしがいい!の3拍子は、落ち着かない、屋上でギターを弾いている、西陽がきつい、というお返しとなって帰ってきた。

一泊三人で20000Kip(300円)である、こんなもので良しとせな、罰があたりまっせ。

町の電気は8時までである。宿探しの一件目で、そこの女主人がうちの宿は一晩中電気がついている、としきりに強調していた訳がわかった。ということは、部屋でデジカメのための電池を充電してても無駄なんや。

9月23日

鶏の鳴き声はいずこも同じだ。
朝早くから心地よいにぎやかさだ。

部屋のドアを開け、屋上のテラスに出れば、その向こうには緑の田圃が波うっている。
村の女達は天秤棒に朝早く収穫したのだろうか、野菜や果物をいっぱい担いで我々の宿の前を通って、マーッケトへと急ぐ。

はーはー、とした息使いが朝の冷たい空気を振るわせる。

今日の予定はメコン川方面に向けて西進することだ。地形的には大河メコンへ向かって高度を下げて行くわけだ。メコン河の河畔にあるシェンコックまでは75キロ・2時間半・15000Kip(220円)とターミナルの掲示板には書いてある。

ただ、但し書きでそれ以上の詳しいことは運転手に聞いてくれと書いてある。要は出発時刻は分かりません、客の集まり次第というわけである。

そんなわけで6時起床、6時30分バス停、のスケジュールで動いたわけであるが、バストラックは動いたのは11時前だった。
予想通りルートはさしたる大きな峠もなく、赤茶けた道をひたすら西に走った。ただ、高度が下がるにつれて、山々の水を集めて来た大地は、道路の路肩を崩壊させたり路面をジャム状にしてしまい、おんぼろトラックはぬかるみをスタック寸前であえぎあえぎ走るのだった。

沿道の集落にはJICA(国際協力事業団)の看板がよく目に付くようになった。
このエリアでは共同の水くみ場の設置が多いようだ。
国南部の幹線道路13号では何十カ所におよぶ橋梁建設で、大々的なものであったが、こんなささやかな水くみ場の設置もこの村の人々にとっては素晴らしいプレゼントなんだろうな、金嵩ではなく村人と共に考えてする資金援助の方が、なにか地に足がついた援助のような気がするおじさんであった。

行程を2/3ほど行ったところで悪路は終わり、車もいわゆるマイクロバスにバトンタッチされた。車も道路状況によって分業化されているようだ。

グングンと道路は高度を下げ、2時過ぎに待望のメコン河の河畔にたどり着いた。
シェンコックの村は小さな河川がメコンに合流する場所に貼りついた小さな村だ。

多分いつもよりバスが遅れて着いたのだろう、バスから降りた我々に一斉にボートのり場から客引きがやってきた。このバスにはスイス人,カナダ人,日本人などいわゆるバックパッカーが7人乗っていた。

この集落に宿泊施設はないではないが、期待はできない。
スピードボートで一気にメコンを3時間下ればフエサイというタイを対岸に挟む比較的大きな村に出るのだ。

晴れたりやんだりの天気が続く今、我々もさらに駒を進めることにした。
事前情報のとおりスピードボートは 一人20$である。

小雨の降り始めた中、戦闘に備えて耳栓と合羽の上下と貸与されたライフジャケットとヘルメットを着ける。昼飯を食べる間もない展開である。                             

(シェンコクシェンコックの船着場) 


エンジンがかかる。
船首が一気に持ちあがる。
機体は水面を約80キロくらいですべり始めるのだ。
客は運動会座りをしたままで、振動と騒音と風と雨に耐えるだけだ。



だれがこんなもん考えたんや。

5分ほどすれば、人間ってーもんはえらいもんで慣れてくる。
後ろを振り返ればO君の顔はひきつっている。
スピードボート2度目の妻は前の席で丸くなったままだ。

これくらいの速度になると水面も道路と同じ堅さになる。
転覆すれば路面にたたきつけられたと同然だ。この辺ではメコンもまだ山間部で、雨季の時期とはいえ曲折部では水面が波だっており、そこに突っ込めばショックアブソ―バなしのバウンドだ。自然と方に力が入る。

1時間ほどで山間部は終り、見覚えのある風景に入ってきた。
ゴールデントライアングルの要、ラオス,ミャンマー,タイが一点で接する場所だ。

船はラオス側のとある集落の船着き場に留められた。
船にも営業範囲があるらしく、新たなる船に乗り移るよう指示された。
あわただしく乗り移る際に、バナナを購入する。
朝から何も食っていなかったのだ。

川幅はゆったりとしてきた。
それに合わせて乗り心地もひと安心の状況になってきた。
右手にはタイのチェンセ―ンの街並みが見える。

なんで俺こんなに知ってるんやろ?

30分ほどでまた選手交代である。
結局、船は5時すぎにフエサイの村外れに到着した。
O君はほとんど放心状態である。

船頭いわくイミグレは6時まで開いてるとのこと。
いける!
あわててメコンの土手をかけ登り、表通に出てツクツクを止める3人であった。

ラオス出入国事務所は勝手しったる場所である。
ほったて小屋で出国スタンプを押してもらい、再び渡し船でメコンを渡る。

別に逃げてきたわけではないけれど、タイ側の車や家、景色、空気までもが違う。
国境ってなんでこんなんやろ・・・・

タイへの入国手続きはクローズ10分前だった。
入国したとたん妻は、中国・ラオスでのおとなしさが消えて、急に元気になり、乗りあいトラックのおっさんと対等に値段交渉をするまでに豹変したのだった。

うー、おそるべし訪問回数。
O君は相変わらずシーンの激変についていけないのだった。

チェンコンの町は庭みたいなものだ。
宿はもちろんインドシナ半島で最高のロケーションを持っているランサイ・ソファン・リゾートという名のゲストハウスである。
さて、これからはバーツの世界である。1バーツ=約3円。これなら公文式にいかなくてもなんとかできるんじゃ!

またまた、強気が戻ってくるみんなであった。
宿代は二人部屋で700Bを600B(1800円)に値切ってチェックイン。
二階の部屋の前にはぴかぴかに磨きあげられた屋根付きの、奥行きは優に5mはあろうかと思われるテラスがあり、ソファーが備えられ、その直下には悠々と流れるメコン川、対岸にはラオス・フエサイの集落が見えているのだ。

こんな豪華テラスで一日過ごせて900円はANAの早割チケットよりもはるかにお得であると、悦にいるおとうさんであった。

本日の行動によって、結果としてラオス滞在は一泊となってしまた訳であるが、今回の様な季節での行動では致し方あるまい。長期休暇で歩き回るならいざ知らず、限られたスケジュールでいったん雨なんぞで崖崩れでも起こって、山中の集落に孤立なんていうことになったら、1週間なんてあっという間に過ぎてしまうわけだから。
 これは、致し方ない、と自問自答するリーダーだった。

 うーむ、リーダーは孤独だ!

夕食は同じくメコンを見ながらタイ料理に舌鼓をうち、たっぷりとした湯量の温水シャワーに至福のひとときを感じるのであった。

やすらぎのくにタイ


9月24日

昨日の劇的な展開とうってかわって、ゆったりとした気分で朝を迎えた。
もちろんモーニングコーヒーはメコン川を望んだテラスでだ。

今日の予定はない。
おもいっきり、この贅沢な環境を楽しむ事だけである。


そんなわけで朝食はビールとパンと卵。
なんやそれ!

目は谷恒生の「楽宮旅社」の文庫本
耳はMDウヲークマンで「シルクロード」
手にはタバコとビール
ふと疲れて目を上げればメコン川
あー、こんな贅沢な・・・・・

妻も別のテーブルで文庫本を読みながらクスリと笑う。
O君はメコン川をボケーット見つめたままだ。
静かな時間が流れる。
こんな時間を過ごせる今の私に感謝。

昼下がりは近くのインターネットカフェに出向き、久しぶりにメールの整理をする。
パソコン使用料はタイでの相場は1分1バーツである。

夕食は、昼過ぎにチェックインしてきたアメリカ人カップル、とはいっても中年に近い二人であったが、夕食を共にする。二人は共にシアトルで働らいているのだが、まさに絵に描いたような典型的なアメリカ人である。陽気で、繊細で、オーバーな表情、間を持たせない会話は、日曜日なんぞは彼女がベテイーちゃんのようなエプロンをして、彼はふーふー言いながらバーベキューのサービスをしているのだろうなー、と推測をするのが容易な二人であった。

会話の微妙な合間に、二人がかわるがわる中空に向けて吐き出すフーというため息とも深呼吸ともつかぬ仕草は、アメリカ人がもっているホスピタリテイー疲れを象徴しているようで、印象に残った夜であった。

夕食後は表通りにある織物の土産店に行く。
ここの雇われ店長の女性は、4年前に初めて私がラオスに入った時にスローボートの中で知り合った人で、バンコクのタマサート大学(日本流の京大)を出ている。彼女とはその後、縁があってタイ国内のバスターミナルでばったりと会ったり、2年前にもこの町で偶然会ったりで、思い出に残る人なのである。

彼女は観光関係の仕事に就きたかったようだが、今はここチェンコンの町でセンスのいい織物や小物を並べて一件の店をまかされているようだ。

何点かの品物を買い、店を出る際、またきっと何処かで会いましょうねという意味で、別れを惜しんで、いわゆる別れの際の軽い抱擁(辞書によると=抱擁は親しみや愛をあらわすしぐさ、となっている)をした。しかし、それが妻の逆鱗に触れ、それはそれは宿に帰って大変な状況になるのであった。

 おそるべし日本の妻
 うーむ、まだまだ我が家も西欧化が進んでないわい。

9月25日

前半の順調な日程消化のおかげで、タイではゆったりとした動きとなった。
今回の航空券は、バンコクinチェンマイoutのチケットである。
ここチェンコンからチェンマイまではバスに乗り継いで6時間。
途中に大きな町であるチェンライがあるのだが、なにもない町である。

そんなわけで、チェンマイで2泊を過ごすということにして宿を後にした。
バス停にはすでにバスが停まっていたが、本数は多くある。
しかも、チェンライまでは二つのルートがあり、30分ほどの違いだけで走っている。 

バスターミナル横の露天マーケットで、名物ガイヤーン(焼き鳥)をほおばりながらビア・シン(シンハービールのタイ表現)を飲むおとーさんであった。
もう、ここまでくれば、おとーさんもリラックスである。

チェンライで乗り継いで引き続きチェンマイまでのチケットを買う。(139B)エアコン付きバスは座席指定である。因みにノンエアコンであると約3時間の走行で77Bとなる。
タイの幹線道路はほとんど高速道路に近い設備を持っている。
これは、いつも感心することである。

 大きな峠を2つ越えれば一気にチェンマイの町に近づく。都会の雑踏が空気で伝わってくる。とはいえ、バンコクほどのものでは無く、いままでの町に比べて、というだけだ。

宿は行きつけの、ギャラリーゲストハウス。通常は800Bを取るのであるが、今はオフシーズンで690B(2000円)でゆったりとした2ベッドの部屋である。一人一泊1000円で、町中にも関わらず一歩中に入った静かなロケーションでこの価格。お値打ちである。

シャワーの後、ホテル内にあるレストランで戴くタイ料理とビアシンは格別であったことはいうまでもない。

9月27日

終日自由行動。
インターネットカフェにてメールの整理やテロ関連のニュースを見る。
妻とO君はショッピングセンターまわりのようだ。

9月28日

帰国の日である。
飛行機は夜の21時。 
宿のチェックアウトタイムは11時である。
こういうパターンは個人旅行者にとっては辛い物がある。

何か一日ツアーにでも申し込んでいるのなら、その心配はないのだが、なんせチェンマイの町は知り尽くしている。あてもなく炎天下に歩き回るわけにはいかない。しからば、残る時間消化方法は昼寝しかないのだが・・・

心配ご無用。
苦節20年。バックパッカーの技を見よ!
宇宙堂という日本食堂が旧町よりにあるのだが、その隣にファングゲストハウスという華僑が経営しているこぎれいな宿がある。

昼飯を宇宙堂で食べてから、そげストハウスに一泊の金を払って手ぶらでチェックインをする。
3人でラブホテルに入る様な気分である。
ツインベッド、扇風機付きで250B(750円)である。
こんな宿の使い方をできるのも、安いからこそ。
ありがたい話しである。

昼食の後の昼寝と読書は6時まで続いた。
夕刻、3人はラブホテルを後にして再びギャラリーゲストハウスに預けてある荷物を取りに行くのであった。


                        おしまい。








【あとがき】

 ちょっと飛ばしすぎて、緊張と緩和のサイクルが乱れた旅になってしまった。
でも、この季節には致し方あるまい。これでインドシナ半島もあらかたの国境陸路通過をしたことになる。

 ラオス北部の山々に点在する藁葺きの集落を見ておもった事は、いつものことだが、ほんまにこの生活が貧しんやろか?であった。

 帰国してからもテロに対する報復攻撃についていろいろの議論が続いている。滑稽なのは、テロを公式な国際法廷の場に出して裁きを受けさすべきで、報復は絶対にいけない、の意見だ。裁判に出てくるテロリストがいるのなら見てみたいものだ。100歩譲って裁判が開かれ、誰が裁くのか、そしてその裁きに服従するテロ集団がどこにある。私には平和に浸りきった意見としかおもえないのだが。

 また一方、テロ行為の根元にアフガンの貧しさを挙げている。貧しさがテロの温床になるのなら世界中のいわゆる未発展国はテロ集団国家となってしまうはずである。一件思想を背景に行動しているかのように振る舞っているが、ただの暴力狂気集団としか私には見えない。

 あげた拳を一気にテロリストの拠点に振り下ろせばいいじゃない、の意見には巻き添えを食らう罪もない市民の状況が必ず報告される。最初に被害を受けた、それこそなんの罪もないニューヨークの人達のことは何処かに棚上げされてしまう。

 日本の大きな殺人事件も、結局は被害者側の無念さや怨念は法治国家の名のもとに葬りさられる。どうも、私にはこれがわからない。誤解を恐れずに言うならば、罪もない被害を受けた人々がいる以上、報復で少々の被害が出たってしょうがないじゃない、てな思いになってしまうのである。

 そして、この理屈をこねまわしていると、行き着くところはイスラムの教えの「目には目を、歯には歯」の、世界に入っていって、悩んでしまう今日この頃であった。

 正しい答えなんてない。結局の答えは歴史しか出し得なく、そしてその答も時の文化・経済勢力での判断となる。あー悩ましきは歴史認識。
 帰国後、インドシナ半島の歴史を改めて調べていてそう思ってしまった。
 
いつもの旅人のわがままで言わせてもらうなら、いつまでも変わらぬ中国、ラオス、タイであってほしい。少なくとも人々の心が・・・
                           2001年10月14日
                                 ハワー・アシュラム 




*ハワー・アシュラムはヒンズー語で「風の道=風来坊」の意味です。