卒業生・在学生からのメッセージ・エピソード


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  60年前の大経大二部学生あれこれ
   経済学部経済学科  昭和30年3月卒業  松尾 宏志 様

 昭和25年(1950年)のこと。当時の終点駅「瑞光」を発車したバスの濛々と上がる砂ぼこりで、バスの来るのがわかる経大バス停。
 田畑ばかりで、人家もまばらな所に母校はあった。確かバス停前に何でも売っている小さな店が1軒あった。
 戦後3年ばかり、占領軍のE・S・S(エコノミック・サイエンス・セクション)、日本名で経済科学局で日本財閥の解体という、とてつもない大仕事の手伝いをしていたが、一段落したところで、大企業に途中入社させてもらった。入社後、まず驚いたのは、厳然たる学歴社会であった。
 仕事は同じでも、大卒・旧制中卒・女子では待遇面で大きな開きがあり、同じ大卒でも官立と私立でも差があった。
 私が一念発起して大学を目指したのは、このような事情である。
 当時は、二部はまだ認可されておらず、別科生として入学し、後に認可がでて、晴れて二部学生となった。同級生は30名ばかり。
 当時は、大学といえども出席簿があって、教授の点呼があった。
 某教授は毎夜、ドブロクの臭いをプンプンさせて講義をされたが、全国民が食に飢えている時代、誰も苦情を言う学生もいなかった。
 しかし、毎夜最前列でノートをとる小生は閉口した。
 某日、講義中に教授が教本に何か印をされるのを目撃し、ピンときた私は、そこを重点的に復習をした。カンはぴたりで、期末テストは、そこから出題。上々の答案を提出できた。その後も、この教授のクセは直らず、小生は大いに助かった次第。
 暫くして、学内奨学金制度が発足した。私も早速応募し、やがて教授の面接があった。
成績のほか家庭事情など考慮されたらしいが、私が皆勤で欠席は一日もなし、また結婚していて赤ン坊のいることが考慮されたのか、合格して、月間2,000円を支給された。
その大半は赤ン坊のミルク代となった。
 今でも時に、もう60を過ぎた娘に「お前の大きくなったのは、経大の奨学金のお陰だぞ」とよく言っている。卒業後、短期間に全額返済したのは勿論である。
 帰途のバスでいつも同席となる某教授は「君らも毎日大変だね。期末テストはレポートにしよう」と言われたことがある。この温情に感謝したのは言うまでもない。
 卒業論文は私の経験したことで「この眼で見た日本財閥の崩壊」であった。
 昭和30年に卒業し、早速会社に卒業証書を提出したところ上司から人事部へ渡り、数年後に系列会社の管理職につき、給料もアップして、少し生活が楽になった。今までの努力が少し報われたように思った。
 もう86才、一度「天六」からバスで懐かしい母校へ行ってみたいと思う、今日、この頃である。

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