学長・野風草だより

No.661~670

No.661 2015年12月22日(火)

リトルプリンスⅡ・鴈治郎・ギエム

 11月17日にJR京都駅の京都劇場で、音楽座のミュージカル「リトルプリンスⅡ」を見ました。音楽座ミュージカルは、1988年の「シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ」の旗揚げから現在まで活動を続けている集団です。子どもたち、老人たち、障がい者たちとダンスや歌を通じて生きる喜びを伝える社会活動なども行っています。「リトルプリンスⅡ」の公演パンフには、「稽古場で稽古をするな!」「継続しないことに成果はない!」「辛いから逃げるのではなく、逃げるから辛くなる」「演(や)りきった先に未来が出現する」などの言葉が並んでいます。
 サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、あまりに有名です。どんなふうに展開するのか楽しみでした。何よりも舞台上に客席があるのに、びっくりしました。ラボシアターと名付けられ、観る側(観客)と観られる側(俳優)が一体となり、全員でドラマを体感し、共振し合う新しいミュージカルだそうです。狭いステージの上で俳優たちが歌い、踊り、いつの間にか引き込まれていました。正直70%の期待でしたが、100%以上の感動をいただきました。俳優さんたちの顔が活き活きしていたのが印象的でした。演出、舞台装置、衣装、音楽まで含めてすばらしいミュージカルでした。ありがとうございました。

 帰ってから、感動が続いているうちにと、家にあった『星の王子さま』(内藤濯訳 オリジナル版・2000 岩波書店)を出してきました。有名な狐さんが語るセリフ、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」とありました。ネットで調べると翻訳権が切れて、今はたくさんの翻訳が出ているそうで、幾つか買って読んでみました。「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」(池澤夏樹訳 2005 集英社文庫)。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」(河野万里子訳 2006 新潮文庫)。

 12月に入ると南座の顔見世に行くようになりました(野風草だよりNo.311436)。今年は、中村翫雀改め4代目中村鴈治郎の襲名披露公演でした。翫雀の舞台は、これまでにも何回か見ています。上方歌舞伎にとって、「鴈治郎」は大名跡のようです。夜の部に参りました。一番安い4階の最上段の席から、オペラグラスで覗きながらの観劇です。口上では、父の坂田藤十郎、息子の中村壱太郎(かずたろう)、弟の中村扇雀、そして片岡仁左衛門や市川海老蔵、片岡愛之助などが挨拶をしていました。口上は、それぞれの役者さんの個性というか地が出てて、いつも楽しく聞けます。私の前の席の方が、「成駒家」と大向うの声を掛けていました。ナルホド、芝居をしている時はこういうタイミングで掛けるのかとナットク。

 鴈治郎の「土屋主税」は風格が出てて、良かったですし、大高源吾役の仁左衛門も上方歌舞伎の雰囲気が滲み出てやっぱり上手でした。赤穂浪士の討ち入りの場面で、俳諧の「其角」が登場するのは、其角の俳句は割と読んでいましたので(『宝井其角全集』1994 勉誠出版、今泉準一『其角と芭蕉と』1996 春秋社)、うれしかったです。
 歌舞伎18番の「勧進帳」は、海老蔵による武蔵坊弁慶、壱太郎の源義経、愛之助の富樫左衛門でした。海老蔵の評価は今までちょっと低かったのですが(野風草だよりNo.504648)、今回の海老蔵は、弁慶の豪胆さを存分に発揮し、、セリフのキレもあって素晴らしかったです。「見得」などは、さすが成田屋のお家芸とあって、オペラグラスから見とれてしまいました。

 本学の教員にすすめられて、12月22日に西宮北口の兵庫県立芸術文化センターで、バレエのシルヴィ・ギエムのファイナル公演を見ました。チラシには、「100年に一度のスーパーバレリーナが、ついにこの年を最後に、舞台を去る!!全世界の人々を魅了し続けたバレエの女神が、愛してやまない日本のファンへ届ける、ラストメッセージ!!」、とあります。そもそも彼女の名前も知りませんでしたし、バレエ公演も見たことがありませんでした。1965年パリ生まれですので、ちょうど50歳での引退となります。2011年の東日本大震災の時には、パリでチャリティ公演を行い、11月には来日して福島で「ボレロ」を踊り、被災した人々を勇気づけたそうです。東京バレエ団とは、1985年以来30年にわたって共演してきたそうです。

 この日の演目は、東京バレエ団による「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド」、「ドリームタイム」、ギエムのソロで「Two」、ギエムと東京バレエ団の男性たちとの「ボレロ」でした。最初、正直戸惑いました。バレエでは、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」とか何らかの物語があるものと思い込んでおり、ダンサーたちの踊りにも何らかの「意味」があるのだろうと見ていました。しかし、踊りに、音楽に、舞台装置に、「意図」はあっても、格別の「意味」はないのかもしれないと気付いた時から、ダンサーの全身の動きそのものに注目できるようになりました。かつて本学卒業生の尾立亜実さんが舞踏集団維新派で公演していた時に、あんまし意味を求めずにただ見たまま感じたままでいいんですよ、と言われていたのを思い出しました(野風草だよりNo.245)。余計なことは、考えまい。
 「踊る」のではなく、「全身で表現する」。「Two」では指先、つま先まで、感情が生きているといった感じでした。「ボレロ」では、周囲の男性団員との踊りとコラボしながら、ラヴェルの低音のくり返しのお馴染みの音楽の中で、安直な表現ですが、「いのちのリズム」を表現していたのでしょうか。

 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」