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【実施報告】北浜実践経営塾「たねやグループビジョン~バトンは未来へ~」

2023年04月11日(火)

お菓子を売るとは、会社の、お客様の、そして地球全体の未来を考えること

北浜実践経営塾は、各界の実力派経営者から、苦労や成功談そして経験に裏打ちされた経営哲学を直接学ぶことができる実践的な経営学講座です。コーディネーターは、本学の特別招聘教授であるテレビや各メディアで活躍する岡田晃先生が務めています。
2023年3月13日(月)に、たねやグループCEOの山本昌仁氏を講師にお招きして「たねやグループビジョン~バトンは未来へ~」と題し、たねやグループの歩みとご自身の信念について語っていただきました。

~プロフィール~
1969年、滋賀県近江八幡市生まれ。
1990年、株式会社たねや入社。
1994年、第22回全国菓子大博覧会にて最高賞 「名誉総裁工藝文化賞」を24歳最年少受賞。
2011年、たねや四代目承継、 株式会社たねや代表取締役社長、株式会社クラブハリエ会長。
2013年、たねやグループCEO就任。
 
洋菓子店での不人気商品「バームクーヘン」が日本中で愛されるようになった理由
 
たねやグループは、和菓子の「たねや」と洋菓子の「クラブハリエ」を展開する、言わずと知れた老舗菓子店です。滋賀県近江八幡市に本社を置き、全国に40店舗以上を展開しています。「たねや」が和菓子の製造販売を始めたのは1872年。それから150年以上お菓子の道を貫いてきました。山本昌仁氏(以下「山本氏」)は、2011年にたねや4代目を継承し、2013年にたねやグループCEOに就任しました。
 
たねやの洋菓子への挑戦は、戦後間もない1951年から始まりました。当時のバームクーヘンは発祥地のドイツの特徴を受け継いで、日持ちさせるためパサパサして硬いものが多く、洋菓子店では人気のない商品でした。そのバームクーヘンを日本人の舌に合うように作り変えたのが、クラブハリエ(1995年に「ボン・ハリエ」から変更)です。ふんわりしっとりとした深い味わいの新しいバームクーヘンは、地元の近江八幡の人々に受け入れられ、クラブハリエは滋賀県で続々と店舗を増やしていきました。
 
大阪初進出となる阪神梅田本店への出店の際、「バームクーヘン専門店をやりたい」というクラブハリエの提案に、百貨店の上層部から「売れる見込みがない」と反対の声が上がりました。しかし、「1度やって売れなかったらその後は好きにしてください」とまで言い切り、1999年に「クラブハリエB-studio」をオープンしました。
 
「私たちのバームクーヘンは、50年近く地元の方々に愛されてきたので、大阪でもやれるという自信がありました。商売する上で大事なことは、自信のあるものだけをやることです」
 
その思惑通り阪神梅田本店で大ヒットし、クラブハリエのバームクーヘンは全国に広まることになりました。バームクーヘンの草分け的存在になったクラブハリエには、技術を求め多くの人が学びに訪れますが、彼らにバームクーヘンの配合を公開しているそうです。それは、クラブハリエが自分たちの利益を守ることよりも、日本の洋菓子の未来のために「お客様にお菓子を食べていただける空間を作る」ことに力を注いでいるからです。ふんわりとしたバームクーヘンが日本中で愛されている背景には、クラブハリエの揺るぎない思いがあるのです。

会場の様子

お菓子を売るだけでは足りない。環境にも配慮してこそ真の商人
 
山本氏は2017年に「たねやグループ”SDGs”宣言」を公表し、商品の脱プラスチック、資源消費量の削減に取り組んできました。そして、2023年に「大切にするきもち」を掲げ、脱炭素の実現、フードロスの削減、地域の伝統文化の継承など、さらに活動を加速させています。山本氏は、SDGsの「誰一人取り残さない社会」と、たねやに息づく近江商人の経営哲学「三方よし」(「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」)は共通するといいます。その上で、今私たちが動かなければ次の世代に重荷を背負わせることになると指摘します。
 
「私たちは神様から地球をほんの少しお預かりしているだけです。借りたときによりも綺麗な状態で返すのは当たり前のことです」
 
2015年にオープンした「ラ コリーナ近江八幡」(以下「ラ コリーナ」)は、たねやの生き方を体現したような施設です。たねやグループのフラッグシップ店であり、来場者数は年間300万人を超えます(2022年現在)。ラ コリーナのテーマは「自然に学ぶ」。甲子園球場約3個分という広大な敷地の中央には、田んぼが広がります。
 
「中央は商品が一番売れるとされている場所なので、本来ならお店を置くべきです。しかし、私たちは『これが近江八幡の形だ』と将来思ってもらえる施設を作りたかった。近江八幡は非常に田んぼが多い地域なので、あえて中央に田んぼ、その周辺にお店を置き、私たちの暮らしを見ていただける空間作りをしました」
 
ラ コリーナの建設の際、農薬が撒かれていた土を全て新しく入れ替えたそうです。生まれ変わった土壌では、近江八幡の在来種の植物が来場者の目を楽しませています。ここにも、「自然はお師匠さん」と語る山本氏の姿勢が色濃く現れています。

ラ コリーナ近江八幡

時代に合わせて変化しても「変わらずおいしい」のがお菓子のプロ

2011年にたねや四代目、代表取締役社長に就任し、それから10年以上経営に身を捧げてきた山本氏。生まれたときからたねやを継ぐことを運命付けられていましたが、高校生までは「遊びまわって悪さもした」といいます。そんな山本氏を変えたのが「お前の得意なものは何だ?自分に自信があるものを徹底してやれ」という父の言葉です。
 
「それをきっかけに、父のように菓子屋の道に進みたいと思いました。10年間の和菓子修行やたねやに入社してからも、『自分には何に自信があるんだ』と常に自問しながら、『一点突破』で打ち込んできました」
 
下積み時代には、「食べたお菓子がまずいかおいしいか分からないなら、当主や経営者になる資格はない」と厳しい言葉を繰り返し言われたそうです。山本氏は社長に就任後、培った経験を活かしてたねやの和菓子に変革を起こします。いらないと判断した商品は廃盤にし、全てを当代の味に変えたのです。
 
「伝統は守るのではなく続けるものです。続けるためには、色んなことに挑戦しなければなりません」
 
味を変えたことをお客様に悟られたらプロフェッショナルではないと、山本氏は断言します。
 
「明治の初めは、砂糖固めたら売れました。しかし今は、砂糖が少なく、かつ舌触りや喉越しの良いものでないと売れません。そうやって世の中の流れに合わせて、たねやのお菓子もマイナーチェンジをしていって、お客様には『前と変わらずおいしい』と言っていただけることを目指しています」
 
山本氏は店の陳列にも変革を起こしました。1976年の西武百貨店大津店への出店で、品揃えばかりに目を向けて失敗した経験から、商品は絞り込み、なおかつその店にしかないものを置くべきだと学んだそうです。オーダーメイドのような品揃えにすると、お客様1人1人がお気に入りのお店を見つけられると山本氏はいいます。「私だけのお店」という感覚は、たねややクラブハリエへの愛着に繋がるに違いありません。

より良くして次の世代にバトンを渡すのが私たちの義務

「神様から借りたものをより良い形で返す」という精神は、会社経営でも変わりません。存続させるため次の世代に綺麗な形でバトンタッチすることが、山本氏の大きな夢だといいます。
 
「私は社長になる前日まで、父から『表舞台に出ずに従業員と話をしろ』といわれ、新商品企画も営業案も全く見てもらえませんでした。しかし、代替わりと同時に父は側近と共に会社を退き、経営に対して一切口を出さなくなりました。何もいわれないことに不安も感じましたが、ずっと父の下にいたら仕事の楽しさを感じられず仕事を続けられなかったかもしれません。だから私も、代替わりは父と同じようにすっと引きたいなと思っております」
 
綺麗な形でバトンタッチするのは、たねやを育んできた近江八幡も同様です。近江八幡を「帰ってきたい・住みたいと思えるような終の棲家」にしていくことも、山本氏の今後の目標だそうです。
たねやグループは、2025年秋に「コンクリートを森に変える」というテーマで、甲子園球場1個分の新店舗が大津で建設予定。その他にも、日本全国を巡り出会った様々な人々と温めている企画が数多くあると山本氏は熱意たっぷりに語り、講座を締めくくりました。

岡田晃氏と山本氏の質疑応答の様子

講座後の質疑応答で、コーディネーター岡田先生からの「たねやを引き継がれてから、大きな転機はありましたか?」という質問に、山本氏はアリス・ウォータース氏の名前を挙げました。アリス・ウォータース氏は、アメリカ初のオーガニックレストラン「シェ・パニース」を開いたことで知られる人物。その他にも、学校の敷地内に菜園を作り、生徒自らが野菜を育て調理し食べることを通して持続可能な生き方を学ぶ「エディブル・スクールヤード(食べられる校庭)」という活動もされています。
山本氏は、彼女との出会いがきっかけで地球環境に関心を持ち、たねやの経営に取り入れていったそうです。さらに、「経営者になり様々な人と話すようになったことで、自分の考え方がどんどん定まっていくのを感じた」と、人との繋がりの大切さも訴えました。
 
お菓子の分野に留まらないたねやグループの活躍は、地球の100年先まで見据えているような目線の広さを感じさせ、あるべき経営の姿を私たちに教えてくれます。