前学長・野風草だより

No.895

No.895 2018年12月24日(月)

石牟礼道子の新作能と鴻池朋子のアート

 本年最後の野風草だよりです。後半は失速してしまいました。学長退任まであと3ヶ月、何とか900回は超えたいと思います。秋は庭で様々に実が成りました。左上の山法師は、黄色か赤く色づいたと思ったらすぐに鳥さんに食べられました。落ちていたので、かじってみると甘酸っぱい味でした。右上のそよごの実は、ややもって11月末でほとんどなくなりました。左下の南天の実は残っていたのですが、この数日で食べられてしまいました。お正月用に飾ろうと思っていたので、袋をかぶせようかと思いましたが、やはり無粋ですよね。右下のまゆみの実は、全く食べられず黒く変色しました。固いんです。吉田山からメジロ、シジュウカラ、ヒヨドリ、ジョウビタキなどが、冬越しのためにお腹に納めてくれたのでしょう。

 私が気に掛けている文学者は、亡くなった石牟礼道子です(野風草だよりNo.890)。彼女の新作能「沖宮」が、10月20日、御所西の金剛能楽堂で上演されましたので、観劇しました。ネットでのチケット発売日には、一瞬のうちに完売となりました。前作の能「不知火」を見ることが出来なかったので、今回は是非ともと思い、パソコンの前で待ち受けていました。金剛龍謹(天草四郎役)、金剛永謹(竜神役)らにより、志村ふくみによる能衣装です。会場には志村さんはもちろんですが、瀬戸内寂聴さんの顔も見えました。
 「石牟礼の育った天草を舞台に、戦に散った天草四郎と生き残った幼い少女あや、そして、人々の死と再生の物語である。干ばつに苦しむ村のために、雨の神である龍神への人柱として亡き天草四郎の乳兄妹であるあやが選ばれる。緋の衣を纏ったあやは、舟に乗せられ一人沖へ流されていく。やがて稲光とともに雷鳴が轟き、あやは、天青の衣を纏い現れた天草四郎に導かれ妣(はは)なる國である“沖宮”への道行きが始まる―。」(公演パンフより)。
 私は正直、よくわかりませんでした。渡辺京二は『預言の哀しみ―石牟礼道子の宇宙Ⅱ―』(弦書房2018)に「『沖宮』の謎」を書いて、石牟礼の意図を読み解いていますが、まだよくわかりません。今後とも彼女の著作集などを読みながら、粘り強く考えていきたい思います。

 私が気に掛けているアーティストは、鴻池朋子です。2017年2月には、新潟県の美術館まで訪ねました(野風草だよりNo.774)。今回は彼女のホームグランドでもある秋田県で、「ハンターギャザラー」の個展が開かれましたので、9月下旬に秋田県立近代美術館(横手市)まで出かけました。
 チラシには、「エネルギーのことを考えています。例えば生きものは、自身の生命を維持するために、「喰う/喰われる」ということでエネルギー変換をします。現在の私たちの文化は、ハンターギャザラー(狩猟採集民)という原型を発展させてきたものです。獲物を捕り料理する、木を伐採し石を積み家にする、モチーフを集め絵画にする、部品が集積した機械もそうです。また採集したものを解析し農耕という「生産」も生みだしました。
 自然界から道具を通してハンティングし、人間界へ引きずり込み、それらをギャザリングし組み合わせる。しかし、こうしたハンターギャザラーの応用やカスタマイズを続けているだけでは、いつまでも「人間界に引きずり込む」方向にのみ文化が進みます。この「原型」をいかに解体し転換できるかが、今、芸術に担わされている役目のように思うのです。
 今回鴻池は、喰う動物たちの姿を描いた幅8m×高さ6mのカービング(板彫り絵画)、今年授かった毛皮と山脈の空間「ドリーム ハンティング グラウンド」などの新作を交えて、原型を揺さぶります。美術館の背後には奥羽山脈が控えています。山脈は人が定めた県境や東北という枠組みさえも取りはずし、互いに執着を捨て地形をまなざせと促しているかのようです。もはや私たちが考える観客は、人間だけではないからです。」(チラシより)

 展示の仕方も度肝を抜きます。そしてビデオを見ると制作過程がわかり、さらには鴻池さんが雪の中で叫びます。ホーメイという喉歌らしいです。冬の川を登ります。今までのアーティストのイメージを飛び越えていきます。何か、私の体内がザワザワし始め、違和感が広がっていきます。何だろう?今まで「農耕」の世界で考え生きてきたことから外れて、ハンターギャザラーの世界へ踏み出すことの恐怖だろうか?これまでの文化の「原型」を解体・転換させようとする鴻池朋子のアートに、今後とも注目し学んでいきたいと思います。
 右の彼女のサインは、『ハンターギャザラー』(羽鳥書店2018)に書かれたものです。会場で予約しておいたら、後日サイン入りで本が届きました。