前学長・野風草だより

No.901~910

No.901 2019年3月30日(土)

自著『日本農法の心土』の紹介

 3月下旬に、『歴史と農書に学ぶ 日本農法の心土―まわし・ならし・合わせ―』(農山漁村文化協会)を出版しました。四六判で296頁あります。8月からこれまで書いたものを整理して、全面的に改稿しました。1月からは校正にかかりきりとなりました。そのため、この「野風草だより」は休みがちになってしまいました。申し訳ありません。
 出来上がって届いたのを見ると、ああー遂に出来たんだなーーと、ご満悦で酒を飲んでいました。パラパラめくっていると、校正ミスが次々と発見されてきます。ああー、絶望的な気持ちに落ち込んでいきます。人名の間違いなどは失礼ですので、農文協にお願いして大至急で正誤表を挟んでもらうことにしました。
 奥付は、2019年3月30日としました。この日は数年前になくなった松山の母の誕生日です。そして奇しくも私の長男の誕生日でもあります。先祖代々、子々孫々、その悠久の流れの中でたまたま現在生き活かされている存在であることをかみしめています。
 内田義彦の言う「作品としての社会科学」になぞらえれば、私なりに四〇年ほどかかって創りあげた「作品としての農学」です。私の人生そのものといっても過言ではありません。今回の本で、私の手持ちのストックはすべて使い果たしました。これから、0からのスタートです。残りの人生を「日本農学原論」の開発・彫琢に捧げようと、決意を新たにしています。

はじめに
本書のタイトル
 「心土」という言葉は聞きなれないかもしれない。土壌学の用語で、耕作された作土の下層の土のことをさ指し、江戸時代の農書でも「心土」「真土」(たとえば『日本農書全集』第二四巻三二八頁など)と出てくる。
 『東京から農業が消えた日』(二〇〇〇 草思社)というショッキングなタイトルの本がある。東京都で戦後初の農業改良普及員になった薄井清が書いている。消費者は、戦後すぐの食糧難の中、「腹」を満たすものなら何でも食べた。高度経済成長で次第に豊かになり、ある程度満腹になってくると、「口」に入れて味の良いもの、さらには、「目」でみて見栄えの良いものへと移ってきた。ところが有吉佐和子の『複合汚染』(一九七五)で農薬使用が問題になると、「頭」で安全と判断できるものへと変化した。有機農業や産直運動を生み出し、現在まで続いている。
 腹→口→目→頭と、食べる身体の場所は変わりながらも、商工業を軸とした経済成長を国家的目標として歩み、国際分業論に基づく食糧輸入政策の下、食糧自給率は一貫して減少し、今やカロリーベース総合自給率は二〇一七年度で三八%にまで低下した。何だかんだ言っても輸入で何とかなってきたではないか、という安心感。このような中、近いうちに「日本から農業が消える日」が来ないとも限らない。
 「頭」の次に来るものは何だろうか。薄井は、「心」をあげている。腹→口→目→頭の身体と農業が結びつく「身土不二」(山下惣一『身土不二の探究』一九九八 創森社)だけではなく、生産者と消費者がさらに心を通い合わす、自然と人間、とりわけ「こころ」(情・心)と一体となった「心土不二」の時代が来ているのではなかろうか。本書を『日本農法の心土』と名づけるゆえんである。


前二著の概要
 私は、これまでの人間選書において、『日本農法の水脈』(一九九六)、『日本農法の天道』(二〇〇〇)を刊行してきた。『日本農法の水脈―作りまわしと作りならし―』においては、当時刊行が進んでいた『日本農書全集』全七二巻の紹介を兼ねながら、江戸期の日本農書の特徴がどのようなものかを述べた。そこでは、「まわし」と「ならし」の原理が働いていることを強調した。そして、守田志郎の『農業にとって技術とはなにか』(東洋経済新報社 一九七六)の解説を再録し、守田農法論の再発見を促した。
 『日本農法の天道―現代農業と江戸農書―』においては、日本全国の名人たちを訪ねそのコツをお聞きしながら、自然と農家が一体となって、生産=生活の循環農法を行ってきたこと、その淵源は江戸農書にあることを明らかにした。さらには戦前の朝鮮農業試験場の高橋昇の足跡を追い、飯沼二郎の農業革命論を検討しながら、日本農学の今後のあり方を歴史的に考えた。そして、二一世紀には「農法革命」とでもいうべき、大きな転換が起こることを示唆した。


本書のねらい
 本書の主たる課題は、守田志郎の農法論をいかにして発展させ、これからの二一世紀の日本農業の方向性を指し示すかである。一九七〇年代に活躍した守田志郎は今や忘れられた農業史家であり、思想家である。一九九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけて復刊された農文協の人間選書で読めるだけである。それから二〇年以上が過ぎ去った。「心土不二」の時代だからこそ、今再び、守田志郎の農法論が甦るべきだと考える。
 私は四〇年以上にわたり守田志郎にこだわり続けてきた。それは私が守田の著作の解説を書いた中で、守田の次の二つの言葉の意味が読み解けなかったからである。「『農業にとって技術とは』という設題に向けて、農法に概念として『技術』は無いという、すれちがいの答えを用意することはできる」(『農業にとって技術とはなにか』一九七六 東洋経済新報社 人間選書一九九四年版二五〇頁)、「主観的とか客観的とかいうことをぎりぎりにつめていくと、その両方がいつしか重なってくるものです。・・・部落を考えるときのたいせつな点も、つめていえばこの主観と客観の重なりあいにある」(『小農はなぜ強いか』一九七五 農文協 人間選書二〇〇二年版一六一頁)。本書は、この二つの疑問への回答であり、忘れられた守田農法論を二一世紀に復権させようとするものである。
 そして、守田の農法論を軸として、私が長年研究してきた大和農法と江戸農書に基づきながら、日本農法の原理と歴史的展開、今後の展望を指し示そうとするものである。


本書の概要
 本書の第Ⅰ部「二一世紀の日本農法を考える」では、守田農法論の概略を紹介し、これまでの農法論研究をふり返る。最近の有機農業・自然農法と不耕起栽培を検討しながら、守田農法論の理論的発展をめざしている。風土技法と養育技術、狭義の農法と広義の農法、農法の基層としての主客合一、作りまわしから生きまわしの循環などの考え方を新たに提案している。そして結論として日本農法の基本原理(まわし・ならし・合わせ)と歴史的展開<天然農法→人工農法→天工農法>、二一世紀の農法革命を述べる。
 第Ⅱ部「江戸農書に見る日本農法」では、第Ⅰ部での日本農法の原理と歴史的展開を、同じ東海地域の江戸初期から末期まで連続する四つの農書で実証していく。さらには広く全国の農書を読み解きながら、「天・地・人」の関係がどのように変わっていくかを見る。最後に、『日本農書全集』が刊行されることで活発化してきた最近の農書研究についてコメントする。そして、江戸農書は「在地の農書」であることを提案する。
 第Ⅲ部の「農業史研究つれづれ」では、私がこの間書いてきた書評や解説、紹介などを再録しながら、中近世から現代までの農業史研究とその周辺の歩みを概観する。さらには、京都大学農史講座初代教授の黒正巌博士から始まり、脈々と受け継がれてきた京都の農史研究を、私が四〇年以上にわたりお世話続けている関西農業史研究会をとりまく人脈、薫陶を受けた諸先生を中心に紹介する。私の農業史研究の背骨は、京都の農史研究の学統によって作られた。

 二〇一九年一月                         德永 光俊

あとがき
 私には気がかりな女性が二人います。お一人は本書でも紹介した石牟礼道子さんです。二〇一八年一〇月二〇日に御所西の金剛能楽堂で、彼女の原作で新作能「沖宮(おきのみや)」を観劇することが出来ました。金剛龍謹・金剛永謹のシテ、志村ふくみの能衣装でした。私は正直、よくわかりませんでした。渡辺京二は『預言の哀しみ―石牟礼道子の宇宙Ⅱ―』(二〇一八  弦書房)に「『沖宮』の謎」を書いて、石牟礼の意図を読み解いていますが、まだよくわかりません。今後とも彼女の著作集などを読みながら、石牟礼の文学を粘り強く考えていきたいと思います。
 もう一人の女性は、現代アートの鴻池朋子さんです。『どうぶつのことば―根源的暴力をこえて―』(二〇一六 羽鳥書店)を読んで、直接見てみたいと思いました。折りよく二〇一七年二月に新潟市の県立万代島美術館で個展がありました。正直、今まで出会ったこともないアートでした。二四mにわたる皮を継ぎ合わせた大緞帳に、獣、魚、鳥たち。人の内臓や血管。そしてそれらを包み込む雪や風、大自然。立ちすくみ、歩き、座り、見つめ、目をつむり、そんな繰り返しで一時間、二時間と過ごしました。美しいとか気に入るとかという反応は、全く起こりませんでした。何か怖いというか、畏れといった気持ちです。今まで私の中にあった農耕的に整頓されたというか、行儀よい美意識が破壊されていく感じなのです。
 二〇一八年九月には彼女のホームグランドでもある秋田県で、「ハンターギャザラー」(採集狩猟民)の個展が開かれましたので、県立近代美術館(横手市)まで出かけました。鴻池さんは、喰う動物たちの姿を描いた幅八m×高さ六mのカービング(板彫り絵画)、毛皮と山脈の空間「ドリーム ハンティング グラウンド」などの新作で私たちを揺さぶります。展示の仕方も度肝を抜きます。そしてビデオを見ると制作過程がわかり、さらには鴻池さんが雪の中で叫びます。ホーメイという喉歌らしいです。冬の川を登ります。今までのアーティストのイメージを飛び越えていきます。何か、私の体内がザワザワし始め、異和感が広がっていきます。何だろう?今まで「農耕」の世界で考え生きてきたことから外れて、ハンターギャザラーの世界へ踏み出すことの恐怖でしょうか?これまでの文化の「原型」を解体・転換させようとする鴻池朋子さんのアートに、今後とも注目し学んでいきたいと思います。作品は、『根源的暴力』(二〇一五)、『ハンターギャザラー』(二〇一八 ともに羽鳥書店)で鑑賞できます。
 小説もよく読みますが、上橋菜穂子、梨木香歩、木内昇、加納朋子、河治和香、朝井まかてなどなど女性作家を愛読しているのは、なぜだろうな?音楽でも、保多由子、波多野睦美、松田美緒、中島みゆき、ちあきなおみなど女性シンガーのCDを愛聴しています。私の受容する農業という学問、そして生き方と共響する何かがあるのかもしれません。


(中略)


 一九九三~九九年にかけて「日本農書全集」第Ⅱ期全三七巻(農文協)の編集委員をし、一九九六年に最初の著書『日本農法の水脈』を出し、続けて学位論文である奈良県の大和農法の研究を『日本農法史研究』(一九九七)、そして二〇〇〇年に『日本農法の天道』(いずれも農文協)と出しました。さあ次は『日本農法の心土』を数年後に出版しますと予告したのに、書けぬままいたずらに一九年がたってしまいました。研究者として情けないやら、恥ずかしい限りです。熟成するのを待っていたといえばかっこいいですが、怠けていただけです。
 本書が成るには、今回もまた農文協の方々にお世話になりました。「日本農書全集」第Ⅰ期全三五巻(一九七七~八三)の時からですので、四〇年以上にもわたるお付き合いです。中田謹介、繁田与助、本谷英基、吹野保男、そして原田津、金成政博の皆さまにお世話になりました。やっと出せた本書では、金成さんに編集、吹野さんに制作の労をとっていただきました。ありがとうございました。


 長いオーバードクターの後で、一九八五年に黒正巌博士が初代学長を務めた大阪経済大学に拾っていただきました。その時に辞令をいただいたのは、西田哲学の元学長鈴木亨先生でした。一九九九年から黒正巌博士が私財を投じて作られた日本経済史研究所の所長を務め、その後何かと「長」をやり続けて、二〇一〇年からは学長を務めています。ご恩返しのつもりでやってきました。気がつけば三四年間にわたり河原町と上新庄を往復し、山崎のウィスキー蒸溜所を横目に見続けてきました。夜に河原町駅から木屋町へと歩けば、いつもの居酒屋・バーが恋しくなってきます。
 三月末で八年半の学長を退任いたします。この間、お世話になりました教職員の皆さまに、心から御礼申し上げます。学長に就任してから、学長ブログとして日々の出来事や心境を「野風草(のふうぞう)だより」として、九〇〇回書いてきました。アクセス数は三月末で八〇万回ほどになります。ありがたいことです。ブログ名は、最初のゼミ卒業生が出た一九八八年三月に贈った言葉、青(アホ)くさいけど「野のようにたくましく、風のようにさわやかに、草のように生き活きと」に由来します。この三月で德永ゼミの「野風草会」はちょうど三〇期、六五〇名ほどになります。今もって年賀状やメールの交換をし、時には集まって飲みながら近況や学生時代の思い出を語りあっています。こうしたつながりを持てたことを、卒業生の皆さんに感謝します。ありがとう。


 最後に私事を少々。故郷の松山から一八歳で京都に出てきて、吉田山の南側である神楽坂に下宿しました。その後、吉田山界隈をうろうろしながら、大阪経済大学に勤めだして三五歳で、今度は同じ吉田山の麓の「近衛坂」(今はあまり言わない)に住み続けています。同じ町内の南端と北端になります。因みに上の家は、大正末期に民芸運動の柳宗悦が一時住んでいた瀟洒な古民家です。吉田大元宮、宗忠神社、真如堂、黒谷さんが四季折々いつもの散策コースです。京都に住んでもう五〇年近くになりますが、未だに「京都人」にはなれません・・・私は何もかもが守旧的ですね。
 妻の真由美とは松山の中学校で知り合い、二人の大学卒業とともに結婚して暮らし始めました。もう何年になるだろうね。私の最後になるはずの著書(おそらく『日本農学原論』農文協?)で、感謝の言葉を述べるつもりでしたが、酒と怠惰のせいで覚束ないので(ごめん)、本書で書きます。「真弓」(俳号)は松山の伝統文藝である俳句に精を出しています。こうして私が生涯を農業史研究と大学教育に一筋に打ち込めてきたのは、ひとえに妻のおかげです。おたがいに二人三脚でここまで無事に歩んでこれたことに、感謝します。ありがとう。一言述べて、結びといたします。


 己亥 立春
                            神楽丘・近衛坂にて
                                  德永光俊